仏教聖地、祇園精舎を訪ねて(インド・ネパール)
「平家物語」と言えば、今から約800年前、鎌倉時代に勃発した源平の乱で源氏に敗れ、落ちぶれていった平家の栄華と滅亡を物語にした軍記ですが、今回私の訪れたインドと、深く関わりがある場所が出てきます。それはまさにこの物語の冒頭文、「祇園精舎」という場所です。では「祇園精舎」って?名前は聞いたことはあるけれど、一体どこ?という方も実はたくさんいるのではないでしょうか。まず、「祇園」という地名から真っ先に思い浮かぶのは京都です。しかし、「祇園」とは、もとはインド北部、「シュラ―ヴァスティー」の町の大きな仏教施設があった場所を指します。
今回訪れたツアーは、仏教にゆかりのある聖地を訪れ、お釈迦様の足跡を辿るというテーマだったのですが、もちろんこの「シュラ―ヴァスティー」の町も訪れ、当時の仏教の繁栄を、じっくり見てきました。ネパールとの国境付近とインド北部には、かつての繁栄を偲ぶことができるお釈迦様ゆかりの地が多く残されており、そのうちの八箇所を「八大聖地」として、今もアジアを初めとした仏教信者が多く訪れる巡礼地となっています。
祇園精舎はその八大聖地のうちの一つで、悟りを開いた釈迦が最も多く留まって説法をした精舎です。当時、シュラ―ヴァスティーの町には、スダッタという、身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から「給孤独者(ぎっこどくしゃ)」と呼ばれていた富豪がいました。ある日、スダッタはお釈迦様の説法を聞いて大変感銘を受け、仏教に帰依し、お釈迦様のために、説法をするお寺を寄付しようと思い立ちます。そして見つかった土地が、ジェータ太子の所有する森林でした。スダッタは、ぜひお釈迦様にその場所を提供したいと思い、その土地の所有者であったジェータ太子に、土地を譲ってくれるよう頼みました。しかしジェータ太子から帰ってきた言葉は、「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやってもいい」とのことでした。しかしスダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたため、ジェータ太子は驚き、熱心に金を敷き詰めるその姿に感動し、そのまま土地を譲り、更に自らも樹木を寄付して、寺院の建設を助けました。そのために、この僧園はジェータ太子と給孤独者スダッタ両者の名を冠して祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん しょうじゃえん)と名づけられ、その名を縮め、「祇園精舎」となったのでした。お釈迦様はこの精舎を大変気に入り、多くの教えをこの精舎で説いたという話が多く残され、経典にも多く登場します。仏教が栄えた鎌倉時代にもこの経典が広まり、実際に平家物語で登場するに至ったのではないかとされています。
冒頭文は、祇園精舎にかつてあったとされる鐘の響きが、「永久不変なものはない」といっているように聞こえ、沙羅双樹(ツバキの一種。お釈迦さまが死を迎えるとき白くなって枯れた。)の花の色は、栄えている者が必ず落ちぶれるという意味を表しています。
現在、残念ながら祇園精舎にその鐘は残っていないのですが、少し離れたところに京都市寄贈の鐘があり、ゴーンと響く鐘の音にしばし目を閉じて世の儚さを感じてみたり・・田舎町にひっそりと佇む鐘楼もまた風情がありました。実際の祇園精舎には、お釈迦様が説法を行ったとされる香堂や瞑想室、多くの弟子たちが暮らしていたとされる僧房、沐浴場跡などが残り、当時の仏教施設としては大規模な場所だったことが伺えます。現インド、そしてネパールにまたがり仏教の布教に努めたお釈迦様の足跡を尋ねながら、仏教の教えと、聖地の威厳に改めて身の引き締まった仏跡観光となりました。(奥谷)
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