ベルリンの壁崩壊25周年、旧東と旧西ベルリンを歩く
この度、ユーラシア旅行社の「ベルリンとドレスデンの休日8日間」より帰国しました。
20年以上の間、東西冷戦の象徴となっていたベルリンの壁が崩壊してから今年で25年。今ではすっかりひとつの「ベルリン」になったこの町は、地下鉄工事やビル建設などが進み、すっかり近代的な大都会になっています。
実際に町を歩いてみると、いったいどこが旧東ドイツでどこが旧西ドイツか全く分からないほどに町全体が整っています。
今回のツアーではベルリンの町の観光時に「ベルリンの壁ウォーキング」へご案内しました。現在は取り払われた「壁」があった跡をガイドの案内を聞きながら歩きました。
最初にバスを降りた場所は、ナチス時代の展示があるテロのトポグラフィー近く。コンクリートのボロボロの壁の一部が残っている所です。一見、何かを取り壊している途中かな?と思うようなところです。良く見ると近くに看板があり、ちゃんとこれがあの壁の一部であった事が記載されています。
「こんな薄い壁だったの?」と一部のお客様から声がもれました。東の人が西側へ行く事を防ぐために西ベルリンを156㎞にも渡って囲っていた壁。東西分裂の象徴と言われていた「壁」はこんな程度だったのか、という印象がありました。実際には厳しい監視がつけられた場所や二重に壁を建てていた場所もありましたが、この壁ができた1961年当初はべニア板だけだった場所もあるそうです。
壁跡を辿って町の中心へと歩いてゆくと、ポツダム広場に当たりました。ポツダム広場は今では「ベンツとソニーが作った再開発エリア」と呼ばれています。ベンツ社はベルリンの壁崩壊前から安いこの土地を手に入れ開発を計画しており、一方ソニー社は崩壊後にベルリン市から再開発への参加を誘致されました。今ではベルリンの富士山と呼ばれるソニーセンターをはじめ、オフィスや店舗、住居、博物館、映画館などが立ち並び観光客とベルリンの若者でにぎわっています。
辿ってきた壁跡の一部は崩壊後に建てられた建物によって一部は途切れていますが、また建物の向こう側へ続いているので、私たちはブランデンブルグ門まで歩きました。
1791年に完成したこの門はプロイセンの栄光を今に伝える建造物ですが、今では東西分裂と東西統一、悲劇と平和を象徴する門となりました。
ベルリンの壁崩壊のニュースが流れたときにテレビ画面に映っていた門です。
ちょうどブランデンブルグ門の近くを歩いている時に旧東ドイツの国民車「トラバント」が通りかかりました。ボディに繊維強化プラスチックを使っていて、コスト削減のために紙パルプを混ぜ込んでいるそうです。ヒョウが降ったら穴があいたという話もあるそうです。当時は皮肉を込めて「紙の車」と呼ばれていたようですが、現在ではマニアの間では大変人気の車だそうです。これも平和の象徴と言えるかもしれません。
ツアーではその後、バスでベルリンの町を回り、壁博物館や残った一部の壁に描かれた壁画・イーストサイドギャラリーなどを見学しました。ベルリンの壁は一直線ではなかったので、見学中には、ここは旧東側、さっきのところは旧西側、と東と西を行ったり来たりする事もありました。お客様からの「今は東西どっち?」との質問にガイドさんが答えた「西も東もどっちでもいいじゃない?今はひとつなんだから」という言葉が印象的でした。
(関根)
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