遺跡が語る古代からの国、壱岐・対馬(ユーラシア旅行社で行く日本ツアー)
先日、ユーラシア旅行社の「魏志倭人伝が息づく島・壱岐と、防人の島・対馬」の添乗に行って参りました。
まずは壱岐から訪問。博多港から高速船で1時間乗れば壱岐に到着です。壱岐は『魏志倭人伝』で「一大(支)国」として登場し、約3000の家があったと記述されています。となると、都がどこにあったのかが気になるところです。ここ、壱岐では、都が特定されています。原の辻(はるのつじ)遺跡です。ここでは住居の遺構や、神官たちの社殿、さらに食物倉庫、排水用の水路、土器溜まり遺構と呼ばれる、言わばゴミ捨て場もありました。興味深いことに、竿秤の分銅が発掘されており、そのため、そこに市場があったこと推定されています。また、船着き場も発掘されており、『魏志倭人伝』に南北との交易があったことを裏付けています。何もない野原には弥生時代の建物が一部復元され、歴史のロマンを漂わせています。
さらに、壱岐から1時間の高速船移動で対馬に渡りました。『魏志倭人伝』の「対馬国」です。『魏志倭人伝』には、「土地は険しく、深林多く」とされています。島をバスで少し走れば、平野に乏しく森林が多いことに気が付きます。これでは耕作は困難です。そのため、生きていくためには交易が必要となり、航海術が発達しました。
対馬は韓国まで、最短部で49.5kmのところに位置しています。600年代には、遣隋使の寄港地としても航路に組み込まれていました。また663年の白江村の戦いで倭国・百済が敗れると、唐・新羅からの侵攻に備えて、対馬には防人が置かれました。その際に築かれたのが金田城(かなたのき)です。標高275mの城山には山を取り巻くように城塞が築かれ、また防人の宿舎もありました。山頂に上がると、対馬を取り巻く浅茅湾の絶景。美しい入り江を望みましたが、一方でここが最高の見張り台であったことにも気づき、東国から3年の任期で派遣された防人たちの孤独さも感じたのでした。
対馬は古代から国防最前線にあり、日露戦争では東郷元帥が対馬沖海戦で指揮を執りました。今回のツアーガイドのお爺さんの世代の方は、対馬の丘でその海戦を見守り、敵艦沈没の様子に万歳したという話には少し驚きました。何とも臨場感のある話です。また、第2次世界大戦時には、対馬には30を超える砲台が築かれ、その跡が今も往時の緊張感を伝えています。
一方、交易も盛んな地でもありました。江戸時代には対馬藩主が交易を取り成し、朝鮮通信使が来日して「韓流ブーム」が起きました。今では多くの韓国人客が対馬を訪れます。これからは国防よりも、交流の島として注目されることを願う旅でした。(斎藤さ)
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