« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »

2015年7月

2015年7月31日 (金)

ハンザ都市、タリンの中世祭へ

先日、「バルト三国とサンクト・ペテルブルク10日間」のツアーから帰国しました。10日間でリトアニア、ラトビア、エストニア、ロシアと4ヵ国を周る、見所盛りだくさんのツアーです。やはりバルト三国とまとめられてしまうことが多いですが、言語、宗教、民族とそれぞれ国ごとに異なり、それぞれに違った魅力があるのです。今の時期は気候も良く、夜は22:30くらいから暗くなり始めます。夕食を食べ終わった後にも街歩きができてしまうほど。

バルト三国ツアー、バルト三国旅行

今回はエストニアの首都タリン旧市街に位置するラエコヤ広場で行われる、タリン中世祭を体験できる日程です。ハンザ都市として繁栄した中世の雰囲気を肌で感じることのできる、タリンでも大きなイベントの一つです。2000年から始まり、今回で16回目。ラエコヤ広場というのは市庁舎広場という意味です。13世紀頃から、市場として機能し、この広場を中心に町が広がっていきました。14世紀半ばにはゴシック様式の市庁舎が建てられ、この広場のシンボルとなっています。

広場にはたくさんの露店が立ち並び、スタッフは皆、中世のコスチュームを身に着け、革製品や陶器、食品等様々なものを売っています。愉快に演奏をしている人の姿もあり、広場は本当に賑やか。全て見ようとすると、さほど広くない広場にも関わらず、ついつい足が止まってしまい、1時間あっても足りないかもしれません。

午後13時からは、オープニングセレモニーが始まり、旧市街の東門であるヴィル門から、ラエコヤ広場にかけてパレードが行われました。いろいろな動物をイメージした派手なコスチュームから、中世の騎士、貴族、市民等の衣装を身にまとった人々が、楽しげに列をなして歩いていました。

バルト三国ツアー、バルト三国旅行


ショッピングをするもよし、ワークショップで何か記念になる小物づくりに参加するもよし、その場の雰囲気にひたるだけというのもよいでしょう。
決して大規模で、且つ派手なお祭りではありませんが、タリンのこじんまりとした、旧市街に合っているとても素敵なお祭りでした。(荒川)

ユーラシア旅行社で行く、バルト三国ツアーの魅力

 

| | コメント (0)

2015年7月30日 (木)

ソロモン諸島のガダルカナルで見つけた絆

先日、戦後70周年の特別企画で、激戦地であったソロモン諸島のガダルカナルとパプアニューギニアのラバウルの戦跡を巡る旅、「さらばガダルカナル・ラバウル6日間」より帰国しました。

3

栃木県程の大きさのガダルカナル島は、そのほとんどを密林のジャングルで覆われている常夏の島。島民は非常に素朴で、ゆったりとした時間の中でのんびりと過ごしています。その証拠に、私たちの乗った車が通る度、子供たちが手を振って駆け寄ってくれたり、道路わきの露店のお兄ちゃんが満面の笑みと共にバイバイしてくれたりするので、心が洗われました。ガダルカナルと言えば、日本軍の激戦の地として有名ですが、約70年前に、日本とアメリカの兵士10万人がこの島で戦ったのかと疑ってしまうほど牧歌的な雰囲気が漂っています。
太平洋戦争でのガダルカナル島の戦いでは、1942年夏~約半年の間に日本軍の兵力が約3万人投入され、2万人以上の兵が犠牲になりました。そのほとんどが飢えと病による死者で、日本軍がガダルカナルの奪還を諦め、撤退する際にも、(一人で歩くこともできない状態の兵士が多かったこともあり)多くの兵士が島に置き去りにされた等想像を絶する戦場となったのです。
ガダルカナルでは、あまりにも多くの日本人が亡くなったので、戦後70年経っても、遺族やその関係者の方が、足繁くこの島に訪れています。このツアーでは、日本軍の撤退の地「エスペランサ岬」にも訪れました。ここには碑が残されているのですが、日本人に心を動かされ、慰霊場所を掃除し保存状態を保つために様々な活動をしてくれている名物のおばあちゃんがいました。 彼女の名前はゴレティさん。私たちが訪問するとギターを片手に、日本語と英語のエスペランサ岬の解説のボードを持ってきてくれました。そのボードには以下のように記載がありました。
「当初、私は訪れる日本人に関心が無かったが、その様子を見ているうちに、友人である日本人にとってこの記念碑がいかに重要であるかを悟った。2005年、私と私の夫は、両親・親戚一同の同意を得て、この記念碑にささやかな修繕工事を行った。マリア・ゴレティとその家族から日本の友人へ わたしたちは、いつでも慰霊と観光であなたがたの訪問を歓迎しています。」
7
彼女は周辺に住んでいる子供と一緒に日本語と英語を交えて、私たちに歌を歌ってくれました。その歌は、毎年この地域にやってくるJAICAの方に教わって覚えた歌だそうです。
今回の訪問で、数多くの戦跡を巡りましたが、それぞれの場所を守ってくれる現地人にたくさん出会いました。そして、改めて日本からはるか遠く離れたこの場所で、ソロモンとパプアニューギニアの絆を強く感じ、そして戦時中に生きた私たちの祖先に思いを馳せ、この悲惨な戦争を二度と起こさないよう、平和への願いがより一層増す旅となりました。(霍間)

| | コメント (0)

2015年7月29日 (水)

パノラミックモンブランで行く!今年リニューアルオープンのエルブロンネ展望台

150729ws10up

先日スイスとフランスへの添乗に行ってまいりました。天気に恵まれ、ツアー中のヨーロッパ三大名峰である、モンブラン、ユングフラウ、マッターホルンを青空のもと見ることができました。その中でも印象深かったのはフランスのエギーユ・デュ・ミディ展望台から乗ることができるロープウェイ、パノラミック・モンブラン!モンブランやグラン・ジュラスなどの名峰を眺めながら氷河の上をロープウェイで渡るというもので、名前の通り絶景を味わえます。また、ロープウェイで移動した先にあるエルブロンネ展望台は今年の4月にリニューアルオープンしたばかりでした。

期待に胸を躍らせ、ロープウェイに乗り込むとそこからは真下に流れるジョアン氷河、右手にはモンブラン・デュ・ミディ、左手にはダン・デュ・ジョアン、その奥にグラン・ジュラスなどの名峰が様々に角度を変えて現れます。そして20分ほど乗り、イタリアのエルブロンネ展望台に近づくと、右手にモンブランが姿を現します。モンブランと言えば、ふわっと丸く雪をかぶり、なんともかわいらしい形をした山ですが、その山の形もイタリア側に行けば、少しとがった形に変化していきます。
150729ws10up_2

展望台に到着すると、階段があり、高山病にかからないよう注意しながらゆっくりと外の展望テラスへ。頂上の展望テラスからはモンブラン、ダン・デュ・ジョアン、グラン・ジュラス、そしてイタリアアルプスを360度パノラマで眺めることができます。そこからの山々の眺めは忘れられないものとなりました。(長田)

ユーラシア旅行社で行くスイスの旅はこちら

| | コメント (2)

2015年7月28日 (火)

ブレスト要塞にて第二次世界大戦に思いを馳せる

 

150701ebm9_19

 先日、ユーラシア旅行社の「恋のトンネルも訪れる ウクライナ・モルドバ・ベラルーシ9日間」のツアーより帰国しました。今回訪問した地は、紀元前、黄金の民と呼ばれる遊牧騎馬戦士スキタイ人が駆け抜け、中世にはキエフ・ルーシ王国が広大な領土を誇った場所です。
 
 「ウクライナって、旅行に行っても大丈夫なの?」という質問を多くの方から頂きましたが、全く心配ありません。確かに、2014年にクリミア問題があり、クリミア自治共和国やその周辺、いわゆるウクライナの東側の地域は、外務省から渡航の延期が勧められています。しかしながら、当ツアーでは、ウクライナの中央部に位置する首都のキエフやオデッサより西側のみの訪問なので、街も人も穏やかで2014年以前と変わらない様子でした。
 
 クリミア問題を始め、幾多の争乱の舞台となったこれらの地域は、その地理的特徴から大国のはざまで苦難の道を歩んできました。今回のツアーでは、ベラルーシのブレストでそれを強く感じました。私たちがブレストを訪ねた日は、ちょうどベラルーシの独立記念日の7月3日でした。
 
 ブレストは、難攻不落の都市としてその名を轟かせていましたが、1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破りドイツ軍がソ連に侵攻しました。その際、ブレストの要塞は激しく抵抗し、約1ヶ月もの間、戦ったそうです。要塞には「私は死ぬ、されど屈服せず。さらば祖国よ」というメッセージが残され、その戦闘の凄まじさを物語っていました。ブレストは、その後勇敢さを讃えられ、ソ連より「英雄都市」の称号が与えられたのです。今回、訪れたウクライナ・モルドバ・ベラルーシ等、旧ソ連の国々では、独立記念日はソ連からの独立した日を示すことが多いのですが、ベラルーシの独立記念日は、ナチス・ドイツ軍から解放された日なのです。私たちが訪問した際も、式典の準備が行われていて厳粛な雰囲気でした。
 
 日本と違って陸続き、西側諸国と東側諸国の狭間で、常に隣国との争いを続けてきた地、ブレスト。戦後70年の今年、この地を訪問したことで、改めて第二次世界大戦について考えさせられました。(坂田)

| | コメント (0)

2015年7月24日 (金)

紫の絨毯が広がる風景~アイスランドのルピナス

5

先日、ユーラシア旅行社の「アイスランド・バス大周遊10日間」のツアーより帰国しました。

アイスランドは、面積10万3000km2 (北海道の1.3倍)、人口33万人の小さな島国です。一言で表すならば「火と氷の島」。現在でも200以上の活火山の活動が起こり、極北の自然環境から、欧州最大の氷河も有しています。また、世界平和度指数ランキングが世界第1位(2013年)と、治安の良さも魅力で、人も大変穏やかです。(ちなみにアイスランドでは、殺人事件が一年に一件起こるか起こらないかというぐらい治安が良い。) 

このツアーでは、リングロード(環状1号線)を通り、南から東、北へとアイスランドを周遊し、それぞれの地域で異なる風景を見る事が出来ます。氷河、湖、滝、間欠泉などの大自然に加え、ホエールウォッチングや天然温泉入浴などのアクティビティーもお楽しみ頂きました。

そして、今回のバス移動での車窓風景を彩ってくれたのが、ルピナスの花でした。東部を移動中、車窓に広がったのは一面に広がるルピナスの紫絨毯!日本でも庭園などで見る事は出来ますが、野生で、かつ広範囲に広がる様子を見る事は出来ません。草花に詳しいお客様もこれには大興奮でした!

木々が少ないこの地では、強風が吹くと、火山灰が道路に入り込み、それによって車がスリップしたり、道路閉鎖になったりと、しばしば問題になっていたそうです。その対策として、30年ほど前にアラスカからルピナスを移植したのが始まりだそうです。その後、荒れ地でも育つという生命力と繁殖力から数を増やし、特にここ数年、その繁殖区域が拡大し、既存の高山植物の生息を脅かすほどなりました。この増えすぎたルピナスに対する処置も検討されているそうですが、6・7月の短い夏に咲き誇るルピナスは、人々の目を楽しませてくれる貴重な風物詩です。(飯野)

ユーラシア旅行社で行くアイスランドの旅はこちら

| | コメント (0)

2015年7月23日 (木)

世界三大瀑布ビクトリアの滝(ジンバブエ・ザンビア)

先日、ユーラシア旅行社の「ナミブ砂漠と南部アフリカ5カ国周遊」のツアーから帰国致しました。今回のツアーではナミビア、南アフリカ、ザンビア、ボツワナ、ジンバブエの5カ国を巡りました。南半球にある南部アフリカは季節が日本と逆の冬。寒いイメージのないアフリカも涼しく過ごしやすい季節です。
雨季が終わったところの現在のビクトリアの滝は水量が増え大迫力の時期。ザンビアとジンバブエの国境に位置している、世界三大瀑布の一つです。現地の言葉ではモシ・オア・トゥンヤと呼ばれています。雷鳴轟く水煙という意味です。その名の通り、近くに行くと水が落ちる轟音と水煙の迫力を感じました。全身ビショビショになりながらも、もっと近くで見たいと不思議な引力を感じました。水量の多い時期だからこそ水煙がモクモクと立ち、それが太陽の光に反射して虹ができ、2重に虹がかかる場面に遭遇することも少なくありません。また、満月の夜は月の光で虹がかかる幻想的なルナレインボーも見られました。

Photo

ビクトリアの滝は20万年前に台地の隆起により川から滝になりました。長い年月をかけて水が落ちる位置を変える、移動する滝なのです。今なお、新しい滝が出来る亀裂も見られ、これから何千年もかけて新しい滝が出来ることもあるそうです。昔、滝だった場所は、現在、渓谷になりジグザグに大地を分けています。そんな、地球の息吹さえ聞こえてくるようなビクトリアの滝を見て、地球の大きさを再確認してきました。(杉林)

| | コメント (0)

2015年7月22日 (水)

ユーラシア旅行社で行く美しい英国の町々

先日、華麗なる英国紀行10日間の旅より帰国しました。
スコットランドから湖水地方、コッツウォルズ、イングランドと周遊してきましたが、それぞれの地域で異なる魅力に触れることができました。
幸い、雨に降られることはほとんどありませんでしたが、イギリスの気候は本当に変わりやすく、一日のうちに四季を味わうことができるというのは本当だったなあという風に感じました。
6月末、スコットランドでは少し肌寒さを感じることもあるくらいでしたが、イングランドは毎日晴れで、真夏のような暑い日が続きました。
スコットランドのエディンバラでは、ナポレオン戦争終戦200年記念の軍事パレードが行われており、見学する人でいっぱい!

ナポレオン戦争終戦200年記念の軍事パレード

鼓笛隊の作り出す大きな音と、凛々しい軍人さんの行列を少しだけ見学しました。
ところで、イギリスのたてものには、それぞれの都市、地域によって特徴があります。
エディンバラの街に建つ建物は、近くで切り出された灰色の砂岩が使用されており、かつてはこの建物が、暖炉や煙突の煙で真っ黒になっていたと言われています。
現在のエディンバラの街の建物は、灰をきれいに掃除してあるのですが、昔のまま、煙突のある建物がたくさん残っています。
煙突自体、今ではあまり使用することはありませんが、撤去せずに残しておいた方が、建物としての価値はあがるのだそうです。
灰色の街の中に建つ、洗練されたゴシック様式の大聖堂や、教会が、この街の風景ををより魅力的なものにしていました。
さて、雰囲気はまったく変わり、コッツウォルズ地方へ。
この地域の建物も、非常に特徴的なのです。
コッツウォルズの家々は、ウーライトと呼ばれる石で造られます。ウーライト、別名、ハニーストーン。
その呼び名の通り、はちみつ色をした石なのですが、比較的柔らかい石であるため加工がしやすいといわれています。
しかし、建築に使われて外気にさらされている間にだんだん固くなってゆくという、なんとも建築に適した石なのです。
この石を使って建てられた家々の並ぶ町並みは本当に温かみがあって素敵なものです。
さらにこの町並に、小川が流れて、緑がたくさんあって、人々は木陰で休むと。楽園のような場所が、このコッツウォルズにはあるのです。
イングランドで最も美しい村と呼ばれるバイブリー、コッツウォルズのヴェネツィアと呼ばれるボートン・オン・ザ・ウォーター。
全英一古い町並が残っているといわれているカッスル・クーム。どの村にも、それぞれ異なる魅力があって、どれだけ居ても飽きない、むしろずっとここでのんびりしていたい。
そんな風に思ってしまうような、素敵な場所でした。

ユーラシア旅行社で行く、カッスル・クーム

綺麗な青空の下、産業革命の舞台、ビートルズの生まれた街、リヴァプールも歩きました。
産業革命のさなか、多くの蒸気船がこの街にやってきて、世界中の都市との交易が行われたことを考えると、なんだかわくわくしてきます。
悲劇の豪華客船タイタニック号が誕生したのも実はこの街。私たちが今回泊まったホテル”タイタニック”も、古い造船所を改装して造られたものでした。
青い空、そびえたつ大聖堂。イングランド国教会のアングリカン大聖堂を訪れました。
非常に大きなゴシック様式この大聖堂、実はあの有名な英国の赤い電話ボックスの設計者が設計しているのです。なんだか不思議な組み合わせですね。
エディンバラは灰色の、古い味のある街並みをしていましたが、リヴァプールの街は、とにかく赤レンガ。
街を流れるマージ―川、たくさんの造船所の建物が。日本でいう赤レンガ倉庫といった雰囲気です。
でもここはイギリス。イギリスらしいモニュメントがたくさん並んでいます。

エルヴィス・プレスリーのポーズをするビリー・フューリーの銅像

ちなみにこの銅像はエルヴィス・プレスリーではなく、ビリー・フューリーです。
リヴァプールにはエルヴィス・プレスリーのポーズをした様々な歌手の銅像が設置されていて、探して歩くのもとても楽しそうですね。
そんなこんなで、イギリスの魅力を十二分に味わったツアーとなったのでした。(留置)

| | コメント (0)

2015年7月21日 (火)

フランスの最も美しい村、コロンジュ・ラ・ルージュ(フランス)

Wf10

 先日ユーラシア旅行社の「南西フランス紀行10日間」の添乗より帰国致しました。今回はお天気にも恵まれ、雲一つない青空を毎日見ることができ、南西フランスの美しい風景に片時もカメラを手放すことができないほどでした。聖母マリアが出現したことで知られる聖地ルルドをはじめ、断崖絶壁に建てられたロカマドゥールといった巡礼地は、どこか厳粛な雰囲気に包まれており、熱心にお祈りをする信者たちを目にすることができました。また、「フランスの最も美しい村」に登録されている村々も訪れましたが、どの村も中世の街並みを残した可愛らしい風景で、一歩足を踏み入れるだけで、タイムスリップしたような気分でした。
 今回のツアーで一番印象に残ったのはコロンジュ・ラ・ルージュです。とても小さな村ですが、赤い街並みが可愛らしい、どこをとっても絵になる村です。この村の魅力を引き出す赤い建物は、この地域の近くでとられる赤い砂岩を使い、石を積み上げて作ってあります。さらに家の前に並ぶきれいに咲いた花々がより一層村を鮮やかに彩っていました。現在これらの建物の中は、レストランやカフェのほかに、この地域の名産のクルミ製品やフォアグラなどを取り扱うお店になっており、店員さんもとても親切におすすめ商品を紹介してくれました。村の雰囲気を楽しみながら散策していると時間がたつのを忘れてしまいます。
 余談ですが、コロンジュ・ラ・ルージュは「フランスの最も美しい村協会」が発足した村でもあります。そもそも、美しい村に登録される為にはどのような条件があるのでしょうか?
1、人口が2000人以下であること
2、村の道路(インフラ)の完備
3、電線地下埋め込み式であること
4、歴史資源が2つ以上あること
5、村の建物保存及び、外観の均一性の維持
少なくともこれらの条件を満たしている必要があります。1982年から設立されたこの協会は年々登録数を増やし、今ではフランス全土で150以上の村が登録されているとのことです。今や昔ながらの町並みを残した小さな村も、壮大な教会建築などの有名な観光地にも引けを取らない立派な観光資源です。フランスの素朴な魅力を堪能するのであれば、小さな村めぐりは欠かせません。(市川)

| | コメント (0)

2015年7月17日 (金)

独立から13年 2015年の東ティモール

Blog_5

先日、ユーラシア旅行社で行く「東ティモールとインドネシア・ロンボク島の旅8日間」へ行って参りました。
東ティモールとは、正式名称“東ティモール民主共和国”、2002年5月20日に独立した21世紀最初の独立国です。どこにあるかというとインドネシアのバリ島から東へ飛行機で約2時間のティモール島の東に位置する国。日本のメディアでは、なかなか目にすることもなく、話題に挙がることもない、比較的日本に近い場所にあるのに情報のあまりの少なさから遠い国・遠い存在に思われます。更に歴史を調べれば近代においての虐殺を伴う紛争があったことが出てくるので“怖い国”“危ない国”という印象をもたれてしまいます。
果たしてそのイメージは正しいのかどうか、観光設備などはどの程度、整っているのかなどを含めて現地のことをお伝えしたいと思います。
東ティモールへの移動は、日本からの最寄として今回インドネシアのバリ島から空路で行きました。到着すると田舎の空港さながら機材からタラップにて地上に降り、建物に向かって歩いていくと、迷うことなく入国査証代を支払う窓口へ。ちゃんと値段表も窓口に張ってあり一目瞭然、分かり易い♪支払い後、受け取った査証シールとパスポート、入国カードを持って行けば、ようこそ東ティモールへ!無事に入国完了。空港から市内までの道路は、各国の支援を受けてか綺麗に舗装され、川に架かる橋も立派な鉄筋コンクリート。2012年にオープンしたショッピングモールを通り過ぎ、ポルトガル通りという植民地時代の名残を思わせる海沿いの道へ。この通りは別名“大使館通り”。マレーシア、メキシコ、アメリカ、ポルトガル、オーストラリア、タイ、韓国、中国そして日本!と各国の大使館を次々と目にしていきました。街の中心に着くと国会に大統領官邸、EU(外壁にはECの文字)の建物、国立ディリ大学に私立大学。また中国人街もあり、主にマカオ出身の人が多いとか。マカオもかつてはポルトガル植民地であったからだそうで、東ティモールとの共通点がこのようなところにあることに面白さを感じました。立派なサッカー場もあり、東ティモールでも少年たちの好きなスポーツはサッカーとのこと。スポーツと言えば、東ティモールの首都ディリ滞在中によく見かけたのはランニングをする人たちでした。観光で訪れている外国人から現地の人まで。海沿いのプロムナードや夕方観光で訪れたクリストレイ(丘の上にあるキリスト像)への500段階段でもよく見かけました。2012年のロンドンオリンピックでは東ティモールの選手が出場した唯一の種目はマラソンでしたし、同年にディリマラソンも行われており(日本からはスペシャルゲストとして有森裕子さんも出場されました)、密かなマラソンブームなのかなと思わせる印象深い光景でした。
今回宿泊したホテルは、ホテル・ティモールでした。国会まで徒歩5分ほどで海沿いのプロムナードも近い場所でした。ホテルにはカフェが併設され、ホテル宿泊者以外からもお茶を飲みにだけ訪れる人がいました。2012年のときは、さびれた昭和の雰囲気があったホテルがリノベーションされ、スタイリッシュな内装になっていました。

Blog

レストランは、インドネシアや中華・タイ系の料理に東ティモールの食材を使ったもので東南アジア諸国の料理とほとんど変わりなく、食材も新鮮な為か美味しく、お客様にも好評でした。新しいスーパーでは、欧州製品のお菓子やアジア諸国からの製品が並び、東ティモール産のコーヒーや胡椒、塩も売っていました。クレジットカードは使えませんでしたが、米ドルが一般通貨なので、あまり不便はありませんでした。(※1米ドル未満は現地硬貨を使用しているのでコインコレクターにはたまらない?)

Blog_3

町中の雰囲気はというと、ずばり“穏やか”。朝に夕に海沿いのプロムナードを散歩していると、友達や恋人同士が楽しそうに幸せそうに歩き、道沿いで果物など売る人はのんびりお客を待ち、数人で集まっていた少年たちは海に沈む夕日を眺めながらおしゃべりをしていました。慌ただしい様子もなく、ぴりぴりした空気も物々しさもなく、ただそれは当たり前の『平常』というものでしたが、それがここでは当然のものではなかったときがあり、長年、人々が望んでいたものでした。それを思うと心の底から、この光景を目にしてよかったなぁと思わずにはいられませんでした。
1975年ポルトガルからの独立を宣言した直後にインドネシア軍による侵攻、そしてインドネシアによる一方的併合、それに反対する人々は強制連行され、拷問、虐殺されました。ここで起こっている出来事は一部の支援国や支援者を除き、世界から黙視され続け、東ティモールの人々は地獄のような年月を送ってきました。1999年に行われた独立の賛否を問う直接投票選挙では、約91%の投票率のなか約78%が独立を支持したことに対し、インドネシア軍と民兵による首都ディリへの侵攻と虐殺もありました。1975年と1999年の2回ともにディリの大半が壊滅させられました。2002年の独立後も10年間は混乱を繰り返しながらの新しい国づくりでした。しかし2012年が節目となりました。この年に実施された大統領選挙後に問題が起こらなかったことから、国連により設立されたUNMIT(国連東ティモール支援団)が撤収し、日本のPKOも任務を終了しました。これが意味したことは、もう外部からの平和維持の手助けなく、自国の力でやっていけるという証明でもありました。それが改めて証明されている穏やかな現実の光景を目にし、私は非常に感動してしまいました。

Blog_4

東ティモールの観光では、いくつかの主要な教会を訪れました。東ティモールでは99%の人々がキリスト教徒(主にカトリック)です。ポルトガル統治下の名残でもありますが、先の悲惨な時代、インドネシアが現地語(テトゥン語)を使用することを禁じたときも、ミサはテトゥン語で行い続け、軍に追われる人々を教会がかくまったり、逃げ場として受け入れたり、まさに人々と文化の両面を守ってきました。世界から黙視されていたときも、当時の法王ヨハネ・パウロ2世はインドネシアの行動を非難してきました。東ティモールの人々がキリスト教を信仰する心は、実際に教会や宗教が彼らを心身共に守ってきた体験を経ているので、非常に篤いものなのだろうなと勝手ながら感じたりもしました。
ガイドさんは「ディリは何度も廃墟になって古い観光名所など全然残っていないけれども、自分たちにはいま平和と自由がある」と幸せそうに話してくれたことが印象的でした。東ティモールが国として観光に力を入れ始めたのは昨年からだそうです。ガイドさんは「いつか自分は観光大臣になりたい。」と語ってくれました。彼にとって日本人の団体は初めてだったので(いつもはオーストラリアやシンガポールの団体)、どうしたらいいか、どうやったらうまくいくかをいつも気にしていました。最近では、大型豪華客船がディリ港に寄港しました。東ティモールの国の発展に伴い、観光化もしていくでしょう(※ちなみに東ティモールの海は、どこも綺麗でした!いまならまさに手つかずの美しい海水浴を楽しめますよ♪)。

Blog_2

東ティモールの話題は、日本に徐々に耳にする機会も増えてくるでしょう。百聞は一見にしかず・・・とはいえ、すぐに東ティモールを訪れるのは難しいかもしれませんが、まずはこの平穏の中、発展している国だということを知って頂きたいなと思いました。
今回のツアーで、いろいろ現地の情報を頂きました『日本東ティモール協会』のホームページも是非、訪れてみて下さい。もっと身近に東ティモールを感じられると思います。(高橋)

>>>ユーラシア旅行社で行く東ティモールのツアーはこちら

| | コメント (0)

2015年7月16日 (木)

マッターホルン初登頂150周年を迎えて(スイス)

スイスツアー

 先日、「スイス二大鉄道とヨーロッパ三大名峰の旅」より帰国致しました。ツアーでは世界遺産の鉄道路線を走る、氷河特急とベルニナ線に乗車し、そして、ヨーロッパ三大名峰であるモンブラン、ユングフラウ、マッターホルンをそれぞれの展望台や麓の町から眺めるという、スイスの見所を巡りました。どの観光地もそれぞれに魅力がありましたが、私はその中でもマッターホルンの麓の町・ツェルマットが特に印象に残りました。
 実は今年2015年はマッターホルン初登頂150周年にあたります。19世紀始め、登山家達がスイスアルプスの名立たる山々を登頂していきましたが、マッターホルンはその切り立った姿ゆえに、登ることができないと考えられていました。そんな中、イギリスの登山家で当時25歳のエドワード・ウィンパーらが1865年、マッターホルンの初登頂に成功。下山時にはお互いを繋いでいたロープが切れ、ウィンパーを含む7人のうち4人が転落し、亡くなってしまうという悲劇も起こりましたが、現在でもウィンパーはマッターホルン初登頂に成功したとして称えられています。
 そんなウィンパーがマッターホルン登山前に滞在していたという麓の町、それがツェルマットです。彼が滞在していたホテルにはそのレリーフが残り、また、街の博物館にはその初登頂の記録が残されています。しかし、何といってもツェルマット最大の特徴は、町の至る所からマッターホルンの姿が見えるということ。天候がよければ、朝方、日の出の光を受けて山頂が徐々に赤く照らされていくマッターホルンの姿を眺めることができるのです。
 そんなツェルマットは今年マッターホルン初登頂150周年を迎え、その記念すべき年を迎えるべく、町全体が例年より賑わっているように感じられました。列車でツェルマットを訪れた私たちを迎えてくれたのは、駅前広場に置かれた、マッターホルンの形を模した三角錐型のモニュメント。そこにはマッターホルンが初登頂された7月14日までのカウントダウンを秒単位で数える時計が設置されていて、町の人がその瞬間を心待ちにしていることが伝わってきます。また、町の至る所に150周年のロゴが貼られ、土産屋ではそれにあやかったグッズも売られていました。中でも私が面白いと感じたのは、町のパン屋が売り出していたマッターホルン型をしたチョコレートです。150周年記念として作られた訳ではなく、以前から売られていたものですが、今年は記念の年ということもあり、その売れ行きは例年よりも好調な様子。お店の方が「どれにしようか迷っているの?だったらこのチョコレートはどう?マッターホルンはね…」と落ち着いた口調でありつつ、情熱的に観光客に話しかけていたのが印象的でした。
 その他、ツェルマットではたくさんのイベントも予定されているとのことで、今年はますます多くの観光客が訪れそうな予感を感じさせます。普段は静かな山麓の町・ツェルマット。しかしそこには、マッターホルンに情熱を捧げ、そして、愛情を持った温かい人々がいらっしゃいました。(越野)

| | コメント (0)

2015年7月15日 (水)

英国の美しい緑は誰のおかげ?

 この度、ユーラシア旅行社の英国物語より帰国しました。
英国というと、雨が降って、寒い、、、と何となく暗いイメージがありますが、今回のツアーでは、お天気の良い日が多く、美しい緑と色とりどりの花が私達の目を楽しませてくれした。
もちろん、雨の多い英国ですがら、15日間の長いツアー中には雨に降られる事もありましたが、優しい霧雨の向こうに見える緑の芝生がより一層輝いて見えました。
また、雨の中でも変わらず草を食む愛らしい羊の親子や、傘もささずに歩いている英国人を見ていると、自分はどうして晴天ばかりを願っていたのかなぁ?と思ってしまいました。

羊

 ツアーでスコットランド、湖水地方、コッツウォルズに連泊して南のロンドンまで巡り、驚いたのは緑の多さです。
 ロンドンやグラスゴー、リヴァプールなどの都市も訪問しましたが、町に入るギリギリまでずーっと牧草地や自然なままの土地が広がっているのです。
町の中にもいたる所に公園があり、また個人の家でも庭があって、特に通りに面した庭は綺麗に手入れされています。
 中には自慢の庭を周辺の人々に開放している人もいて、その手の専門雑誌に載る事が夢だ!なんていう人も少なくありません。
 庭の手入れに関するテレビ番組も、日本だったら情報番組やクイズ番組などをやっているようなゴールデンタイムに放送され、それを家族みんなで見ながら「うちの庭はあーしよう、こーしよう」と話しているのだとか。

バイブリー

 英国人は昔から自然を大切にして、手入れをして管理してきました。
最近でこそ、エコの時代、エコツーリズムという言葉を聞くようになりましたが、
実は英国ではもう120年も前からナショナル・トラストという団体が活動しているのです。
よく見てみれば、英国のあらゆるところに見られるナショナル・トラストのオークの葉のマーク。
 自然を自然のままにしておいては荒廃したり、無秩序な都市化に利用されてしまうかもしれない。それを防ぎ、自然環境や貴重な歴史的建造物を後世に残していこうとする運動です。

ナショナルトラストマーク

あの、ピーターラビットの作者のベアトリクス・ポターも自分の財産や土地の管理をナショナル・トラストにゆだねた人の一人です。
 「何て美しい緑!」と思ったらオークの葉のマークを探してみて下さい。
 実はあなたも、目の前に広がる美しい自然の維持に知らないうちに貢献しているのかも知れません。(関根)

| | コメント (0)

2015年7月14日 (火)

花と食事と利尻富士

先日、ユーラシア旅行社の「利尻・礼文フラワーハイキング 4日間」より戻ってきました。“花の浮島”と称される礼文島と、日本百名山に数えられる利尻富士がある利尻島で、たっぷりお花を満喫してきました!
Dscn8038
今回のメインのひとつは、レブンアツモリソウ。礼文島の固有種です。見た目が、平家物語などに描かれる平敦盛の背負った母衣に見えることから、この名が付けられました。例年5月下旬~6月中旬が見頃ですが、今年は開花が早かったようで、実際に目にするまでは本当に咲いているかどうか、かなり心配でしたが、そこは、お客様の祈りも届き、何とか残っていたレブンアツモリソウを見ることができました。
かつては、数多く見られた花も、乱獲により、その数は激減してしまい、現在では群生地を含む、僅かな場所でしか見ることが出来なくなってしまい、島の人々が必死に保全に努めていらっしゃいました。
Dscn8148
もうひとつのメインは利尻山。姿形が富士山に似ていることから、利尻富士とも呼ばれます。しかし、この利尻富士は大変恥ずかしり屋さんで、見られる確率は約50%とも言われます。私達の到着時も隠れてしまっていましたが、ここもお客様のお祈りパワーが勝ち、最終日の姫沼ハイキングでは、しっかりと逆さ利尻富士を見ることが出来ました。
昨今のハイキングブームで、礼文も利尻もピーク時には多くの観光客が訪れますが、利尻富士が見えやすい8月や、色づく秋、雪を冠した利尻山が見られる冬にも、訪れてみたいと思いました。今回はちょうどウニの季節でしたが、その季節ごとの、美味しい食事も見逃せません!(吉村)

| | コメント (0)

2015年7月10日 (金)

大コーカサス山脈に抱かれたスワネティに魅せられて(コーカサス三国)

7
先日、ユーラシア旅行社の「ナヒチェヴァンも訪れるコーカサス三国物語 16日間」より帰国しました。アルメニアにジョージア、アゼルバイジャンとあまり馴染のない国名がずらり。それもそのはず?!どの国も1990年までソ連を構成する社会主義共和国で、崩壊後の1991年に独立した新しい国々。しかし世界で初めてキリスト教を国教としたアルメニア。8000年も昔からぶどうを生産、世界最古のワインの生産地、緑豊かなジョージア。天然ガスや石油などの資源に恵まれ今やドバイに追いつけ追い越せで急成長を遂げているアゼルバイジャンなど『コーカサス三国』と一括りには出来ないそれぞれ個性や魅力の詰まった国々なのです。中でも私が今回最も印象深かったのがジョージアのスワネティ地方でした。
2
 
大コーカサス山脈に抱かれたスワネティは古くからスワン人が暮らしています。峡谷に囲まれ山深いこの地は他の地域とは違い侵略や破壊を受けることなく独自の習慣や文化を守り続けることができました。今ではすっかりスワネティのシンボルともなったどっしりとした塔型の家。かつてこの地に住む人は仲間が殺されると殺した側は殺された側の仲間や家族から命が狙われるという血讐が存在しました。どちらか一族が滅亡するまで続けられ、自身を、また家族を守る為に建てられたと言うのだから家が重厚な塔なのも納得?そのような血生臭い歴史も今や昔、現在では廃墟となっていたり倉庫として使われています。そんなニョキニョキと建ち並ぶ塔をぬってまるで迷路のようなウシュグリ村を歩いてみると、今の時期は色鮮やかな野花があちこち咲き乱れどっしりした塔を華やかに彩ります。走り回る子供達の笑い声、家の前に座って煙草をふかしながら談笑している老人、カランカランとカウベルを鳴らしながら我が物顔で狭い道を独占する牛。塔の歴史が嘘のような穏やかな時間が流れていました。ジョージアに残る桃源郷、スワネティにはすっかり癒され魅せられました。 (岩間)

| | コメント (0)

2015年7月 9日 (木)

ギリシャ人に突撃インタビュー!!今後ギリシャはどうなるのー?

スパルタの朝市

先日、「ギリシャ縦断とエーゲ海クルーズ16日間」のツアーより帰国しました。
出発前からギリシャ経済の混乱ぶりが報道されており、お客様からも「治安は大丈夫?」
とか「ギリシャはこれからどうなるの?」と治安からギリシャの将来のことまで余計な心配が
絶えませんでした。

EU残留なのか脱退なのか。巨額の借金は今後どうなるのか。
今世界で最も注目を集めるギリシャに行ってきました。

社会の混乱で人心は乱れ、険悪な雰囲気かもしれない。
人々は疑心暗鬼で、たぶん眼つきも悪いだろうな・・・。

勝手な想像をしつつ、機内で気合を入れ、緊張しつつ、恐る恐る入国。

いざ、町にでたら、あれっ??

街中のカフェ二オンには平日にも関わらず、常連のオジサンたちでいっぱい。
手首に巻いたギリシャ正教のお数珠をチャラチャラさせて暇そうにしています。
相変わらず、栄養満点ふくよかなオバちゃんたちは巨体を揺さぶりながら市場で買い物をしています。店頭には新鮮な野菜や果物、ピチピチの地中海の魚や肉が豊富にならび、
どうやら食べ物にも困っていないようです。

アテネの中心賑やかなモナスティラキ広場150607sgsp_229

人々の表情も、眼つきも至って穏やか。
険悪な雰囲気どころか、疑心暗鬼どころか
以前と変わらず、ほのぼのとした雰囲気さえ感じます。

夕暮れ時になると、タベルナ(レストラン)の外のテラス席も地元の人々でいっぱい。
もっとケチケチ生活を送っていると思っていたのに、
そして心も荒んでいると思っていたのに、
以外と普段通りの暮らしぶりで、人々の穏やかな表情に驚きました。

ふとしたきっかけでギリシャ人と話してみたら、「ウチの息子はウェイターで自給2ドルで頑張っているんだよ。」 なんて話もあってやはり大変そう。

何かにつけ冗談で「何たってお金が無いからね~」と笑い飛ばし、
「どうにかなるさ~。」と言いつつも、
やっぱり経済低迷や将来を気にしている様子もチラホラ垣間見えます。

さて、これからギリシャはどうなるのでしょうか?
人と話すことが好きで、外国人にも親切で、どこか憎めない、困ったギリシャ人たち。

ギリシャにとって良い方向に、「どうにかなる」といいですね。
(上田)

ユーラシア旅行社で行くギリシャツアーの魅力はこちら

| | コメント (0)

2015年7月 8日 (水)

マルコ・ポーロの生まれ故郷?コルチュラ島へ!(クロアチア)

コルチュラ島
先日、ユーラシア旅行社の「アルプスの懐スロヴェニアとアドリア海の至宝クロアチア11日間」より帰国しました。中世に様々な歴史を辿った街を訪れるこのツアー。その中でも、印象深かったのはマルコ・ポーロの生家があると言われるコルチュラ島の半島部分に位置する、コルチュラという町です。
旧市街は城壁に囲まれ、南北にまっすぐ伸びるメインストリートとそこに交わる何本もの東西の通りは、まるで魚の骨のようです。このような街並みは、夏の南からの強い日差しを遮り、冬の強い北東からの風を防ぎ、新鮮な西風だけを取り入れるためだそうです。言われてみると、路地のような道が多く、影が多かったので快適に散策が出来ました。
この地で生まれたと言われているのが、地図や羅針盤のヒントとなる方位磁石を持ち帰り、後の大航海時代のきっかけを作ったマルコ・ポーロです。マルコ・ポーロはヴェネチアの商人と考えられてきましたが、クロアチア史の研究者の間では、コルチュラ島出身と考える人も多いそうです。実際にマルコ・ポーロの生家と伝えられる家も残っています。
コルチュラに生まれたにもかかわらず、コルチュラは当時ヴェネチア共和国に属していたため、ヴェネチア人とされてしまったという説や、マルコ・ポーロの家系はコルチュラ出身であるが、ヴェネチアに移住したという説などがあります。
『東方見聞録』で日本のことを黄金の国ジパングとして紹介してくれたマルコ・ポーロ。自分の生まれた街に関しても、紹介してあげればいいのになぁと思う今日この頃です。
(瀬戸)

「ユーラシア旅行社で行く、クロアチアツアーの魅力」

続きを読む "マルコ・ポーロの生まれ故郷?コルチュラ島へ!(クロアチア)"

| | コメント (0)

2015年7月 7日 (火)

タリンの旧市街祭(エストニア・バルト三国)

Img_2358

先日、ユーラシア旅行社企画「ハンザ都市の輝き、バルト三国とポーランド周遊の旅」の添乗に行ってまいりました。
エストニアでは首都のタリンを訪問。800年もの歴史を誇るタリンの旧市街には中世の街並みがよく残っており、世界遺産にも登録されています。お城や教会を訪ね、石畳を歩き、まるで中世にタイムトリップしたような気分を味わうことができました。
またタリンでは、ちょうど旧市街祭が行われていました。タリンの旧市街祭は毎年5月~6月に行われ、一週間ほど続きます。「教会の日」や「子供の日」など、毎日違うテーマが決められていて、中には「健康の日」なんてテーマもあり、なかなかユニークなお祭りです。

私が訪れた日はお祭りの最終日でした。街の中を、中世の兵士の恰好のした人々が練り歩いたり、市庁舎広場のステージでかわいい民族衣装を着た女性たちが民族舞踊を披露したり、いつも以上に中世の雰囲気を楽しむことができました。中世の戦いの再現もあり、突然放たれる空砲には度肝を抜かされました。他にもフェンシングの試合があったり、ブラジルの格闘技ダンス・カポエイラのステージがあったり、はたまた自転車レースがあったりと、やっぱりどこかユニーク。地元の人が出演者、観客含め大勢参加していたので、年々市民のニーズに合わせて変化してきたお祭りなんだろうと感じました。
活き活きとした地元の人々にたくさん出会いました。やっぱりお祭りっていいですね。
(佐藤)

ユーラシア旅行社で行くバルト三国ツアーの魅力はこちら

| | コメント (0)

2015年7月 3日 (金)

サウンド・オブ・ミュージックの世界へ(オーストリア)

Dscn8212_3
先日、「オーストリア、世界遺産巡りと湖水地方の旅 13日間」より帰国しました。
ちょうどオーストリアが長い冬の時期が終わり、日照時間の長い時期に訪問しました。ツアーではハイライトとなる、ウィーン、ザルツブルクでは連泊をして、湖の美しいインスブルックの街では聖体行列の見学にもご案内しました。
オーストリアと言えば、芸術の都、モーツアルトの生まれ故郷、カフェ文化のおしゃれな国、等色々なイメージがあると思いますが、今回のご旅行では、「サウンド・オブ・ミュージックの舞台を巡りたい」という目的で訪れた方が多くいらっしゃいました。あの美しい風景は全てオーストリアで撮影され、その美しさに魅了された方も多いのではないでしょうか?
ちょうど、今年2015年は、ハリウッドで「サウンド・オブ・ミュージック」が公開されてから50年を迎える記念の年です。日本でもこの映画のファンは多く、今年は記念のDVDなども販売され、日本だけに留まらず世界的に盛り上がりを見せています。
この映画の舞台を巡りたい!という気持ちでご参加頂いたお客様が、特に楽しみにされていたのは、ザルツブルクの観光です。ドレミの歌をマリアが子供たちと歌った「ミラベル庭園」やナチスに追われて一家が隠れた「ザンクトペーター墓地」、また、ツアーの日程表に細かく記載はないのですが、マリアと子供たちが歌いながら渡った「モーツアルト小橋」、マリアがトラップ邸を訪ねるシーンを撮影された「レジデンツ広場」等も見学しました。目にする風景の多くが、「映画の舞台に使われた~」とガイドさんの説明があり、映画のワンシーンを思い出いすと心が弾み、気持ちも高ぶりました。皆様、映画の登場人物と同じようなポーズをして写真撮影をお楽しみいただきました。
さらに、今回のツアーでは、ザルツブルクの他にも映画の舞台を訪れることが出来ます。緑と湖の美しいザルツカンンマーグート地方まで足を延ばします。実はこの地方も映画の舞台となっています。マリアとトラップ大佐が結婚式を挙げた教会があり、子供たちが木登りをしたシーンを撮影したモントゼーや、家族がピクニックに行くシーンを撮影した風光明媚な山々が広がります。
移動中のバスの車内では映画のサウンドトラックを流しながら、皆様で鼻歌を歌ったのもよき思い出です。実は何を隠そう私もこの映画のファンの一人。帰国後改めて映画を見直してみました。「このシーンはあの場所だ」とよくわかるようになり、映画のシーンと共にオーストリアの美しい風景が心に刻まれた旅となりました。(霍間)
 

| | コメント (0)

2015年7月 2日 (木)

3Dの世界に飛び込んできました!(中国・武陵源ハレルヤ山)

Dscn3261
先日、ユーラシア旅行社「6つの世界遺産と仙境絶景物語14日間」のツアーより帰国しました。このツアーは、中国人でも「一度は行きたい」と言われる武夷山や黄山、武陵源の人気の山に加え、まだ日本では知名度の低い、三清山(道教の霊峰)や廬山(多くの詩人に愛された山)なども訪れるコースです。毎日がハイライトと言っても過言ではない行程でしたが、ここでは、湖南省にある武陵源風景名勝区についてご紹介したいと思います。
この地は、長江の中流域に広がる山岳地帯で、「岩峰と清流の出会いが生んだ仙境」と称され、1992年にはユネスコの世界自然遺産に指定されています。雨風に浸食されて出来た岩峰が独特な景観を成しており、世界のどこに行っても、他の追随を許さない大迫力の秘境と言えるでしょう。
さて、突然ですが、映画『アバター』をご存知ですか。2009年に公開されるや世界的な大ヒットとなり、現在も世界興行収入一位の記録は塗り変えられていません。また、「観るのではない、そこにいるのだ」というキャッチコピーで、3D映像による劇場公開が大きく取り上げられた作品でもあります。ちなみに私も2回映画館に観に行ったのを覚えています。この劇中に登場する「惑星パンドラに浮遊するハレルヤマウンテン」のモデルとなった場所が、武陵源なのです。
そして、そこはまさに『アバター』の世界そのもので、3Dの世界に飛び込んだかのよう!形や大きさの異なる石柱が天に向かって聳え立つさまは、「奇観」「摩訶不思議」「幻想的」「現実離れ」…。どんな言葉で表現すれば適切なのでしょうか。いずれにしても、訪れた人々に感動を与えることは間違いありません!
当時、映画館で『アバター』を見た時は、3D映像の技術の高さに「こんな綺麗な映像が創れるんだな~」と感動しましたが、現実はもっと幻想的で美しい場所でした!(飯野)

| | コメント (0)

2015年7月 1日 (水)

ウォビッチ聖体祭の天使と美女(ポーランド)

先日、「ポーランド物語 15日間」のツアーより帰国致しました。
私達の訪れた5月末は、天候にも恵まれた上、菜の花のシーズンにも当たり、移動中の車窓からは、どこまでも続く黄色い菜の花畑と青空が私達の目を楽しませてくれました。ポーランドというと、第二次世界大戦の戦火を大きく受けていることもあり、暗いイメージを持たれている方もいらっしゃるでしょう。確かに、辛く苦しい時代もあったのも事実ではありますが、現在ポーランドの旅を進めて行くと、想像以上に人々の信仰の深さや前向きな明るさや、温かさ、豊かで美しい自然等にイメージが変わるでしょう。

Dscn46201_3

ポーランドは、カトリック教徒の信仰者が国民の90%以上を占めていて、熱心な信者の方々が多く、年間通じてキリスト教に関わる行事も非常に多いです。 一年の中で最も重要な祝日の内の一つである「聖体祭」は、特に盛大です。 ポーランドの各地で行われる聖体祭の中でも、とりわけ見応えがあるのが、ワルシャワより90kmに位置する「ウォビッチ」という人口約3万人の小さな町の聖体祭です。年に一度の聖体祭には、多くの人々が国外から訪れます。

Dscn46542_2

聖体祭は、一日掛けて行われます。まず午前中は、大聖堂にてミサが行われた後に 町中を伝統衣装を纏った人々が行列行進をして行く様子をご覧頂きます。お昼を挟み、午後の部では広場のステージにて繰り広げられる少年少女達の歌や踊りをご覧頂いたり、広場を埋め尽くす程の露店にて、民芸品等を覗いてみたり、伝統工芸品の体験を楽しんでみたり、名物料理を食してみたりと、楽しみ方も様々です。 ウォビッチの聖体祭は、国内でも最大規模で、約60もの民族衣装の中で最も美しいと言われています。色鮮やかなストライプ柄のスカートに白いブラウスの袖には伝統的な薔薇の刺繍が施されていて、レース部分にはウールを使用している凝った衣装で、素朴さと華やかさを兼ね備えた非常に美しい伝統衣装です。手が込んでいるからか、伝統衣装の中で最も重いのだとか。 聖体祭の見所は、何も衣装だけではありません。衣装を纏った行列の人々の中には、 老若男女、十人吐色ではありますが、特に多くのカメラを向けられ注目の的となるのは、幼い子供達と美女達でしょう。未だ、歩き始めて間もない位の子供がお母さんに手を引かれつつ行進する姿や、はっとする程の白い肌に、真っ赤な口紅に青い眼をした美女達は、同じ女性でも見とれてしまう程の美しさです。 ツアーでは、一日中聖体祭を堪能して頂くようなプログラムになっています。神聖なカトリックの祈りの場に立ち会えるだけでなく、美しい伝統衣装を纏った人々の屈託のない笑顔にも出会える貴重な体験が出来、ポーランドをより深く周知できる行事です。 ポーランドの天使のような愛らしい子供達や息を呑む程の美女達をご覧頂くだけでも一見の価値はあるでしょう。 (井手)

ユーラシア旅行社で行くポーランドツアーの魅力はこちら

| | コメント (0)

« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »