2015年7月30日 (木)

ソロモン諸島のガダルカナルで見つけた絆

先日、戦後70周年の特別企画で、激戦地であったソロモン諸島のガダルカナルとパプアニューギニアのラバウルの戦跡を巡る旅、「さらばガダルカナル・ラバウル6日間」より帰国しました。

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栃木県程の大きさのガダルカナル島は、そのほとんどを密林のジャングルで覆われている常夏の島。島民は非常に素朴で、ゆったりとした時間の中でのんびりと過ごしています。その証拠に、私たちの乗った車が通る度、子供たちが手を振って駆け寄ってくれたり、道路わきの露店のお兄ちゃんが満面の笑みと共にバイバイしてくれたりするので、心が洗われました。ガダルカナルと言えば、日本軍の激戦の地として有名ですが、約70年前に、日本とアメリカの兵士10万人がこの島で戦ったのかと疑ってしまうほど牧歌的な雰囲気が漂っています。
太平洋戦争でのガダルカナル島の戦いでは、1942年夏~約半年の間に日本軍の兵力が約3万人投入され、2万人以上の兵が犠牲になりました。そのほとんどが飢えと病による死者で、日本軍がガダルカナルの奪還を諦め、撤退する際にも、(一人で歩くこともできない状態の兵士が多かったこともあり)多くの兵士が島に置き去りにされた等想像を絶する戦場となったのです。
ガダルカナルでは、あまりにも多くの日本人が亡くなったので、戦後70年経っても、遺族やその関係者の方が、足繁くこの島に訪れています。このツアーでは、日本軍の撤退の地「エスペランサ岬」にも訪れました。ここには碑が残されているのですが、日本人に心を動かされ、慰霊場所を掃除し保存状態を保つために様々な活動をしてくれている名物のおばあちゃんがいました。 彼女の名前はゴレティさん。私たちが訪問するとギターを片手に、日本語と英語のエスペランサ岬の解説のボードを持ってきてくれました。そのボードには以下のように記載がありました。
「当初、私は訪れる日本人に関心が無かったが、その様子を見ているうちに、友人である日本人にとってこの記念碑がいかに重要であるかを悟った。2005年、私と私の夫は、両親・親戚一同の同意を得て、この記念碑にささやかな修繕工事を行った。マリア・ゴレティとその家族から日本の友人へ わたしたちは、いつでも慰霊と観光であなたがたの訪問を歓迎しています。」
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彼女は周辺に住んでいる子供と一緒に日本語と英語を交えて、私たちに歌を歌ってくれました。その歌は、毎年この地域にやってくるJAICAの方に教わって覚えた歌だそうです。
今回の訪問で、数多くの戦跡を巡りましたが、それぞれの場所を守ってくれる現地人にたくさん出会いました。そして、改めて日本からはるか遠く離れたこの場所で、ソロモンとパプアニューギニアの絆を強く感じ、そして戦時中に生きた私たちの祖先に思いを馳せ、この悲惨な戦争を二度と起こさないよう、平和への願いがより一層増す旅となりました。(霍間)

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