« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年10月

2015年10月30日 (金)

ゲバラ日記のすゝめ(ボリビア、ゲバラ終焉の地・バジェグランデ)

近年、空前の「ウユニ塩湖」ブームで話題の国、ボリビア。世界一標高の高い首都・ラパスやそこに暮らす先住民のアイマラ族、銀の街ポトシやボリビア誕生の地スクレなど、まだまだ失われていない素朴さがボリビアの人気の理由。しかし、魅力はそれだけではありません。今回のツアータイトルは、ずばり「ウユニ塩湖とゲバラ終焉の地、ボリビア世界遺産紀行11日間」。〝知られざる〟もうひとつのボリビアのハイライトを巡ってきました。

Dscn0049


〝エルネスト・チェ・ゲバラ〟誰もが彼の名を聞いたことがあるでしょう。1950年代、バチスタ軍事独裁政権に対しゲリラ戦を繰り広げ、キューバ革命を成功させた英雄。キューバのみならず今尚、世界中の多くの人々の心を惹きつけて止まないヒーローです。輝かしい功績を残したキューバ革命の後は、アフリカのコンゴ、そしてボリビアでゲリラ戦を展開し、帝国主義国の搾取に苦しめられている地で戦い続けましたがいずれも失敗。最終的にはボリビアのアンデス山中で捕えられ射殺されてしまいます。その後、ボリビア政府軍によって遺体は隠され、30年後の1997年に発見された・・・というエピソードは何度かこのブログで紹介されていますので、今日はちょっと違った観点でお話しします。

「ゲバラ日記」という本をご存知でしょうか。その名の通り、チェ・ゲバラ自身がアンデス山中に潜伏していた日々の事を綴った日記です。如何なる瞬間も油断を許さないという状況の中で、淡々と客観的に綴った彼の野戦日記には、〝いつ、どこの村で何を調達した〟とか〝○○村から何キロ地点で、誰其が負傷〟など、毎日の記録をかなり詳細に記録しています。そのお蔭で、ゲリラ戦から48年経った今でも、ゲバラ達の確実な歩みを、私たちは知る事が出来るのです。又、共に戦った同士達もそれぞれが日記をつけており、ゲバラが捕えられるまでの一連の動きや、チューロ渓谷の戦闘の様子を知る手がかりになります。

Dscn0038

ボリビア・サンタクルス州、私たちを乗せたバスが青々と草木が茂るアンデス山脈にさしかかると、現地ガイドは何度かバスを止め、「さぁ、ここでフォトストップだ。」と言いました。誰もが「こんな所で?何もないのに」という気持ちでしたが、実は、こういう何の変哲もない、荒々しい自然と隣り合わせの田舎の村こそがゲバラ達が歩んだ、ゆかりの土地なのです。サマイパタへ向かう道中、数軒の民家が立ち並ぶ小さな集落で聞いた、ガイドの話が印象的でした。「‘67年7月16日、当時はここに一軒の民家しかなかった。ここからゲバラは日用品や薬(特に彼自身の喘息の発作を和らげる薬)を手に入れるため、6人の戦士をサマイパタの町へ送ったんだ。彼らは、この道の前に立って、ヒッチハイクをしようと車を待ったんだが、サマイパタへ向かう車は一台も通ることはなく、6人を歩いて行かせた。結局、町へ行っても喘息の薬は見つからなかったが、ゲバラはこの村唯一の民家で彼らの帰りを待たせてもらった。その後、ゲリラ達は私たちの後方に続くこの獣道を進んで行った。」
この48年前のエピソードは、あまりにも鮮明な状態でガイドの口から説明されたので、まるで数日前に起こった出来事で、武装した彼らが大きなリュックサックを背負って、鬱蒼とした茂みの中を歩いていく姿を錯覚してしまいました。
また、ゲバラが暗殺された後の5人の生き残りゲリラ兵の逃避劇も凄まじいものです。国外脱出を試みて、ほとんど地球一周の逃避行、そして遂に、彼らの祖国であるキューバへの帰還。それを心待ちにしていたフィデル・カストロの強い抱擁・・・
ゲバラが活躍した時代を記憶されているお客様が多いように、生き残ったゲリラ兵や敵として戦った政府軍もまだまだ健在の現在。私たちにとっては、幸いなことに多くの回想録が出版され、当時彼らが抱いていた強い闘争心や正義感などもリアルに近い状態で知ることができます。キューバを旅して、ゲバラに心動かされた方には是非訪れて頂きたい、ボリビアの「ゲバラ終焉の地」。その際は、「ゲバラ日記」などの文献が旅の見聞を何倍も広げてくれるでしょう。(三橋)

| | コメント (0)

2015年10月29日 (木)

神様がいた、小さな村の教会(フランス)

先日、「絵のような風景」が広がる南西フランスから帰国しました。
今回はワインの里ボルドーから始まり、大西洋岸のバスク地方ビアリッツや
バイヨンヌを巡り、奇跡の泉ルルド、赤レンガで作られたバラ色の町
トゥールーズやアルビ、聖地コンクやロカマドゥール、そしてフォアグラや
トリュフの産地ペリゴール地方の小さな町々などを巡ってきました。

今回の旅は、訪れる町や村々の至る所で秋の到来を感じることができました。

朝の冷たい空気を吸い込んで見上げると、秋晴れのスカッとした青空。
街路樹のプラタナスやくるみの木は緑から黄葉にかわりつつあり、
足元を見ると栗のようにツヤツヤとした立派なマロニエ(西洋栃の木)の実が
ゴロゴロと転がっています。

さて、話は変わりますが、ペリゴール地方の小さな村、フランスの美しい村にも
認定されているカレナックを訪れました。
かつては水運で賑わったドルドーニュ川沿いの人口僅か300人ほどの小村です。

ステンドグラスの色彩が石床に映るカレナックのサン・ピエール教会

この日の朝に村を散策していて、ふと村の小さな教会に入りました。
堂内に入るとほんのり暖かく、ガランと静まりかえる堂内は薄暗く、誰もいません。
秋の穏やかな陽ざしがステンドグラスを通して石床に差し込み、
色彩も鮮やかに映っています。
冷たく固いはずの石床が次第に温かみを帯びて見えてきました。

小さな片田舎の教会なので、華美な彫刻や壁画、聖像などの装飾は一切ありません。

スッキリとシンプルな空間。余計なものは何も見えず、何も聞こえず、
優しい光が差し込んでいるのを、ぼんやり見ていました。

いつも私たちが観光で訪れる教会は、名の知れた立派な教会が多く、豪華な装飾で溢れる教会であったりします。
あっちの有名な彫刻、こっちのフレスコ名画、そっちの豪華な祭壇とあれこれ説明を聞いてキョロキョロしていますが、
この教会ではじっと前を向き、心を無にしてひたすら祈ります。

深い静寂に包まれた堂内(カレナックのサン・ピエール教会)

ふと、このような穏やかな空間の中でこそ、神様と繋がるような気がしました。
神様と向き合うべき空間は、こういう場所なのかも知れません。

今回の旅で訪れた小さな村々の教区教会はどこも地味ながら、
人々の日々の「祈りの空間」のような雰囲気があり、
静寂に包まれた堂内が印象的でした。(上田)

フランスの田舎町巡りのツアーはこちら

バスクの町を巡るツアーはこちら

| | コメント (0)

2015年10月28日 (水)

ヨーロッパの秘境?スロヴァキアへの旅

ユーラシア旅行社のスロヴァキアツアー、タトラ山脈のロムニツキー・シュティート

先日、「タトラ山脈の麓、緑の大地スロヴァキア大周遊 10日間」のツアーから帰国しました。よく間違えられますが、“スロヴェニア”ではありません。1992年末までチェコと連邦共和国を形成していた、スロヴァキアです。国名に“スロヴァキア”とついたのは1918年。まだ100年弱の歴史で、それ以前の約1,000年はハンガリー王国の一部だったことはあまり知られていないのではないでしょうか。現在のスロヴァキアは、北海道の5分の3程の面積に約540万人が暮らす中欧の小国ですが、文化や歴史、自然などの見所がたくさんあります。ユネスコ世界遺産に登録されている場所を中心に、バスでぐるっと一周した今回の旅。なんとなく日本に似ているところや、日本との接点をいくつかみつけました。

まずはその国土。カルパチア山脈を背骨とする山がちな地形が広がり、森林も多い国です。今回は、山脈を形成するタトラ山脈の麓に宿泊し、国内第3位の高さの山、ロムニツキー・シュティートを訪問。早朝、麓からは朝日に染まる山頂がはっきり見られましたが、その後山頂に着いたときは残念ながらガスで真っ白・・・。しかし山は忍耐、ジッと待っていると一瞬で晴れて周囲の峰々が目の前に!そして、麓に広がる森林は少しずつ赤や黄に色づき始め、秋の日本を思わせる光景でした。

ユーラシア旅行社のスロヴァキアツアー、ヴルコリニェツの村

次に、タトラの山奥の村、ヴルコリニェツに残る伝統的な木造建築。屋根はこけら葺、外壁はパステルカラーですが、村の佇まいはさながら白川郷といった感じ。世界遺産に登録され、景観が大切に保存されていました。

旅では食も大切です。スロヴァキアは羊の飼育数が多いそうで、ラム肉や羊のミルクのチーズは美味。海がないので魚は主に川魚ですが、臭みはありません。いつもそこに添えられているのはライスです。パラパラしていますが臭いはなく、ソースとあわせて食べるとこれまた美味でした。おかずとしてではありますが、ライスをよく食べる習慣にも驚きです。

日本との接点としてご紹介したいのは、スロヴァキア人のレルヒさん。この方が日本にスキーを本格的に伝えたといわれ、1911年に現在の新潟県上越市で陸軍の軍人を相手に指導したのが最初とされています。時は流れて2014年、ソチオリンピックで銅メダルを獲得したスキー・ジャンプ/ラージヒル団体のメンバー、清水礼留飛(しみずれるひ)選手の名前はこのレルヒさんに由来するのだそうです。さらに、レルヒさんは新潟県のゆるキャラにもなっています。両名の今後の活躍に注目したいと思います。その他の有名人だと、一時期、日本のテレビコマーシャルによく出演されていたテニス選手のマルチナ・ヒンギスさんもスロヴァキア出身。その強さでも名が知れ渡ったのはいうまでもありません。

ヨーロッパとはいえ、まだまだ情報量が少ないスロヴァキア。周辺国と比較して観光客が少なく、あまり知られてないという点では、ヨーロッパの秘境といえるかもしれません。今回の旅でスロヴァキアのことをより知りたくなり、もっと日本との関係を探してみたくなりました。(江間)

| | コメント (0)

2015年10月27日 (火)

本場のビール祭りを体感!ミュンヘンのオクトーバーフェストに行ってきました!

 

150924wg15_tc_175

先日、『ドイツ物語 16日間』の添乗より帰国致しました。このツアーは西から南、そして東へとドイツの主要な観光箇所を押さえつつ、観光客もまだまだ少ない隠れ家的な小さな町も丁寧に巡るコースです。日本よりも少し早く秋が訪れるドイツでは、黄葉が色付き始めた木々のコントラストが美しく、車窓からの景色もいつも以上に楽しむことが出来ました。そして、今回はこの時期に開催されるドイツの祭典オクトーバーフェストとローテンブルク秋祭りも訪れる特別日程でした。
 最近、日本でも至るところで開催されているオクトーバーフェスト。ドイツでも日本と同じように至る所でオクトーバーフェストが開催されていますが、その発祥はミュンヘンです。
 
 その歴史はもともと農民達の収穫祭だったものが、1810年に時のバイエルン王ルートヴィッヒ1世の婚礼祝いと重なり、その時に行われた競馬行事の後に開催されたビール祭りがはじまりとされています。この競馬会場は、オクトーバーフェストの発祥地としてその後の会場となり、なんと広さは東京ドーム9個分!普段は広大な空き地ですが、毎年10月になると敷地内に巨大なビアホールとなるテント式のレストラン、観覧車やジェットコースターなどの移動遊園地が出現し、大人だからこそ楽しめる巨大なビールのテーマパークのようになっています。

150924wg15_tc_152

当時の開催日が10月17日だったことから「オクトーバーフェスト」という名がつきましたが、200年経った現在では毎年、10月の第一日曜日が最終日となる9月からの約二週間の期間で開催されています。
 ビアホールの中では、1リットルの巨大なジョッキビール(飲めない方はリンゴジュースなどもあるのでご安心ください)を片手に、「ブロースト(乾杯)!」の声が響き、飲めや歌えやの大賑わい!最初は少し圧倒されてしまいましたが、南アルプス地方の華やかな民族衣装で着飾り、皆で肩を組み、歌を歌いながら陽気に歩いている姿を見ていると、こちらまでわくわくしてきました。お客様もお酒が進むにつれアルコールと会場の雰囲気に酔い、次第にオクトーバーフェストの楽しさを実感したようでした。
 
 そんな、オクトーバーフェストの会場の雰囲気にのまれて、ついつい進んでしまう食とビール。何と、期間中に訪れた640万人の人たちが消費するビールの量は750万リットルで丸焼きにされる鶏の数は46万羽、豚の骨付肉は5万8千個、丸焼きにされる牛は100頭、ソーセージの数は22万本にも及ぶとか。名実ともに世界一のビールの祭典でした。(三浦)

| | コメント (0)

2015年10月23日 (金)

「ラ・ボデギータ・デル・メディオ」での熱い夜(キューバ)

Img_0119

先日、「カリブの楽園、キューバで過ごす休日 10日間」への添乗に行って参りました。今年の7月、アメリカとキューバは事実上国交を回復しました。長らくアメリカの経済封鎖を受け、自国の文化を風化させることなく保ってきたキューバ。スペイン植民地時代の雰囲気を残す旧市街、ミルキーグリーンのカリブの海と白い砂浜、ラテン系でノリの良い人々…。至る所で音楽が流れます。

旅のハイライトでもあった世界遺産ハバナ旧市街の観光の最終日、私たちは“ラ・ボデキータ・デル・メディオ”での夕食を楽しみました。ここはヘミングウェイが足繁く通っていたバーレストランの一つ。壁一面がこのお店に来た人たちのサインで埋め尽くされ、ヘミングウェイのサインも壁にかかっています。

Img_0111

夕食を楽しんでいると、バンド一行が私たちの方に向かってきました。もしかして、この部屋でも…?と私たちがどきどきしていると、バンドの人たちは慣れた様子で、どんどん部屋に入ってきました。演奏ができるギリギリのスペースを確保すると、彼らは視線で示し合わせて演奏を始めます。耳が慣れてくるころには曲に合わせて思わず踊りだしたくなるようなリズムの良さ、ノリの良さ。「モヒート!」とお酒もすすみます。私たちの前での演奏が終わると、次は他の欧米グループを盛り上げ、そこの全員立ち上がって踊りだしていました。熱の冷め切らない私たちはその欧米グループを横目に名残惜しさを感じつつ、バーを後にしました。(長田)

ユーラシア旅行社のキューバツアーはこちら

| | コメント (0)

2015年10月22日 (木)

黄金色に染まるコーカサス、ワイン収穫の時期に行われるアルメニア使徒教会の儀式

コーカサスツアー,コーカサス旅行
先日、「民族と文明の道 コーカサス三国周遊」の添乗より帰国致しました。コーカサス三国とは黒海とカスピ海の間の、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア(グルジア)の三国のこと。今回訪れた9月後半は、ジョージア、アルメニアで山の木々が色づく時期で非常に思い出深い訪問となりました。
ジョージア軍用道路ではコーカサスの雄大な山並みが黄金色に染まり、雲に隠れて見られないことも多いカズベギ山(5,047m)も顔を出してくれました。山の上のツミンダ・サメバ教会、色づく木々、そして牛がフレーム内に収まるポイントで写真ストップ。
この時期はぶどう収穫の時期でもあります。ジョージアはワイン発祥の地。約8000年の歴史があります。 また、隣国アルメニアでも世界最古のワイン醸造所が近年発見されました。車窓からは収穫時期のぶどう畑の風景が続きます。
また、キリスト教の国教化に関してもその歴史は古く、アルメニアは世界で最初(301年)、ジョージアは世界で2番目(337年)。ローマ帝国のキリスト教国教化(392年)よりも古いのです。
世界最古のキリスト教国アルメニアの総本山、エチミアジン教会では7年に一度世界中のアルメニア使徒教会信者が詣でる儀式が行われます。幸運にも今年、2015年は、その儀式の行われる当たり年。儀式が行われるのはツアーが訪れた1週間後でしたが、普段は博物館のケースの中に納められている約200リットルの聖油壺が、本来あるべき主祭壇に据えられているところを見ることもできました。ワイン収穫の時期に大切な儀式が行われるのも、古くからワイン作りとキリスト教信仰が行われてきたアルメニアらしく、印象深いものでした。(尾崎)

| | コメント (0)

2015年10月21日 (水)

組曲「展覧会の絵」の「キエフの大門」と、キエフの「黄金の門」(ウクライナ)

ウクライナツアー,ウクライナ旅行
先日、ウクライナのツアーより帰国致しました。
988年、ウラディミール大公によって東方正教会を国教にしたウクライナ。今でこそ国名を「ウクライナ」と言いますが、建国当時は「キエフ公国」の首都でした。キエフは現在のロシアから見た「キエフを首都としたロシア」、つまり「キエフ・ルーシ」の首都だったのです。13世紀に入り、モンゴル軍がキエフを支配するようになり、キエフ公国は滅びると、首都はモスクワ公国へ移転しました。現在のロシアの首都モスクワです。そう考えると、「ルーシ(ロシア)」の首都としては、キエフの方が200年ほど古い街だと言えます。
キエフの街を歩いていると、黄金のドームをいただくペチェルスカヤ修道院や聖ソフィア寺院から往時の繁栄を感じます。ペチェルスカヤ修道院の内部はフレスコ画やイコンに彩られ、人々の拠り所として信仰を守り続けてきたことが窺われました。また敷地は全長7kmもの壁に囲まれていて、その規模にも驚きです。
ウクライナツアー,ウクライナ旅行
さて、きっと誰もが耳にしたことがある曲、ムゾルグスキー作曲の組曲「展覧会の絵」の中の「キエフの大門」。キエフには今でも「黄金の門」が建っていますが、クラッシックファンなら、これが「キエフの大門」なのか気になるところです。実在する「黄金の門」は1240年もモンゴル来襲によって破壊され、1982年にその遺構の上を覆うようにして建てられたものです。「キエフの大門」はと言うと、1869年にハルトマンという建築家がキエフの門の再建コンペに応募した図案に由来しています。結局、キエフの門の再建計画は実施されないまま終わり、ハルトマンは亡くなりました。そしてハルトマンの友人であったムゾルグスキーが亡き友人を追悼するために作曲したのが、「キエフの大門」でした。現在の「黄金の門」と「キエフの大門」は直接の結びつきはありませんが、壮大なフィナーレのこの曲を聴くと、かつてのキエフの栄華と、ムゾルグスキーの悲しみの両方を感じます。これからも「展覧会の絵」を聴けば、古の都キエフが浮かんでくることになるだろうと思いながら町を歩きました。(斎藤さ)

| | コメント (0)

2015年10月20日 (火)

幸せの国ブータンの深き信仰心を感じる旅

 先日、「ヒマラヤの国、ブータンとシッキム王国・ダージリン12日間」のツアーから帰国しました。今回の旅は、インドのダージリン(西ベンガル州)から始まり、シッキム州を経て、ブータンへ向かいました。シッキムは、1975年にインドに併合されるまで、チベット仏教の国であったため、その影響を色濃く残していました。そして、国境を越えブータンに入り、そこでも素朴な祈りの風景に出会いました。

Dscn2764

 旅のハイライトでもあるタクツァン僧院は、ヒマラヤ地方に仏教を伝えたグル・リンポチェが虎の背中に乗ってこの地に飛んできたことが創建の由来となっている、由緒正しき僧院です。タクツァン=虎の巣の意味の通り、山の斜面に張り付くようにして造られたこの僧院への道のりは、さながらハイキングです。途中の展望台で休憩をとりながら、ゆっくり進みますが、山道を登り、階段を上り苦労してたどり着いた時の達成感は、ひとしおです。私でも、僧院にたどり着くのに一苦労だったのですが、驚くことに、子供連れでもこの僧院を訪問している家族もいて、彼らの厚い信仰心を感じます。

Maturi

 また、今回のツアーでは、ティンプー・ツェチュ祭も見学しました。このお祭では、チベット仏教の儀式や法要に基づいた舞が披露されます。この晴れの日のために、男性の民族衣装を「ゴ」、女性の民族衣装を「キラ」で最高に着飾ります。カラフルな民族衣裳の人々で埋め尽くされた会場で見る、極彩色の仮面で色鮮やかなお祭りは、ブータンの素朴なお国柄をあらわしていました。(坂田)
 

| | コメント (0)

2015年10月16日 (金)

歩いて愉しむ知床の秋

Dscn8461
先日「紅葉の世界遺産・知床を歩く4日間」より戻りました。東京より一足早く訪れる知床の秋。概ねお天気にも恵まれ、知床連山を臨みながら、海の景色、陸の景色とぎゅっと詰まった知床の大自然を満喫しました。希少な動植物の生息地となっていること、海から陸へとつながる生態系がわかりやすく見られること、そしてこれらを保全していくための管理体制が整っていることなどが評価され、知床が世界遺産に登録されて早10年。現地に精通したネイチャーガイドの案内を聞きながらこの地を歩くことで、その言葉の意味がなるほどと納得できるのでした。
Dscn8454
今回特に紅葉が美しかったのが、知西別岳(ちにしべつだけ)に抱かれた羅臼湖を目指す往復約6㎞のトレッキングコースです。ヒグマに出逢う可能性もあるこのコースでは、彼らの棲みかにお邪魔するという姿勢が大切。また、シーズンを通してぬかるみの多い登山道では、それを避けて歩いてしまうと登山道を広げ、道脇の高山植物を傷つけてしまうため、長靴が必須です。所々ズボッズボッと足を取られながら歩くと、途中の「三の沼」に、逆さ富士のように映る羅臼岳の姿。日本100名山のひとつでもある羅臼岳は知床連山の最高峰。今回はその頂上までしっかりと姿を見せてくれました。点在する小さな沼や湿地を抜け、紅葉・黄葉に彩られた知床最大の湖、羅臼湖の景色を目に焼き付けた後、登山道を引き返します。トレッキングの疲れも、温泉でゆっくりと癒していただきました。(川井)

| | コメント (0)

2015年10月15日 (木)

日本の“普通”が通じない南エチオピアへ!

ユーラシア旅行社で行く9月18日発「南エチオピア大縦断8日間」の添乗に行って参りました。今年、エチオピア航空直行便が日本に就航したり、エチオピアコーヒーメーカーの一つ「トモカコーヒー」が代々木上原に記念すべきカフェ第1号店をオープンしたり、某芸人さんがハマル族のブルジャンピングに挑戦したりと日本のメディアにも取り上げられ始め、知名度が徐々に浸透してきたエチオピア。
エチオピアは首都のアディスアベバを大雑把な起点として、北と南でガラリと雰囲気も暮らす人々の生活も異なります。南部に暮らす民族の人たちの中には、洋服を着用せず牛や山羊の皮で出来たスカートや上半身(ときには下も)は衣服を纏っていないスタイルで、電気・水道のない生活をしています。また一夫多妻制だったり、天下一武闘会(武器は木の棒)のような大会で一番強い男性が超絶にモテたりと私たち日本人の“日常”“一般”“常識”というものは、ことごとく通じない、まさに冒険をしているような地域が南エチオピアなのです。

Photo_3

移動中の車窓の景色、民族の方たちの村、市場と食べ物など、どれもこれも珍しく、考えさせられたり、興味深いことだらけ。四駆による長い移動の多い南エチオピアでは、車窓から常に見かけるのは、水タンクを運ぶ人々。水道のない生活では、村指定の水汲み場で水を汲める指定の時間に合わせて並んでポリタンクに水を入れ、何キロも離れた自宅まで、主に女性が担いでいきます。朝と夕方には放牧地へ移動する牛や山羊たちと家畜を追う男性の姿。電線や電柱を見かけるのも大きな町の近辺だけ。エチオピアという国のイメージやアフリカという地域柄=食べ物に困っている先入観がありますが、ツアーで巡った湖周辺では綿花やバナナのプランテーションがあり、市場を巡ればジャガイモ、タマネギ、ニンニク、唐辛子、トウモロコシなどが売られています。エチオピアの国民食と言われるインジェラの原料となるテフは、北部では必ずと言っていいほど見かけますが、南ではあまり栽培されていないのでなかなか見かけず、高価な食物になります。その代りに南ならではの植物であるワサビノキ科のモリンガをよく見かけます。最近日本でもビタミンB、ビタミンC、プロビタミンA、β-カロテン、ビタミンK、マンガンなど栄養素が多く含まれたスーパーフードとしてお茶やサプリメント、美容クリームに加工されて売られています。市場では青々したモリンガの葉が山のように売られていますし、道歩く人々が担いで歩いていたり、村の畑や個人宅の庭に植えられていたり、現地の人たちの身近な植物で重要な栄養源なのだなと感じさせられました。私たちもツアー中に、ホテルのビュッフェで食す機会が何度かありましたが、苦みもなくホウレンソウのように食べやすく、私はたくさん食しました。(※繊維も豊富なので、食べ過ぎますと翌日お通じが良すぎるので注意です。)

Blog

南エチオピアでは、様々な民族の方たちと出逢うことも、目的のひとつ。ハマル族、ムルシ族、エルボレ族、ツェマイ族などなど、エチオピアには80以上の民族が暮らしています。民族ごとの衣装や慣習、生活、持ち物など様々な違いがあります。また暮らしの中心が農耕の民族の人々は穏やか、遊牧民だと積極的と気質も違う模様。カメラを向ける私たちへの写真を撮れ!というアピール度と積極性が高いのは奇抜な風貌で名高いムルシ族。しかし、最近は遊牧民ではないツェマイ族の村人たちもすごい度を越した積極的になっていたことには驚きで、これは時代の変化といったらいいのでしょうか・・・。民族の人たちに対面したとき、感じたのは、自然のなかで生きる人たちは、やはりしっかりしていて、強いなぁと。愛想笑いはなく、力強い視線。地に足をどしっとつけ、背筋がピンと伸び、男性は無駄な脂肪のない引き締まった身体、女性は肉付きがあり女性らしさを持ちながらも腕は引き締まっていて、自然と共に生きるたくましさを身体つきや雰囲気(オーラ)から感じ、惚れ惚れと見入ってしまいました。

Blog_3

日本では、町全体で停電が起これば、臨時ニュース速報としてテレビ画面の上にテロップが出たりしますが、現地では電気が不足すれば、急な停電または断水が起こります。停電はいつも何時間くらい続くのか?断水はいつも平均してどのくらいで終わるのか?この質問に現地のホテルスタッフは首をかしげます。質問の意味がわからないのです。こちらの質問も現地の人に対してはあまりに日本人的な質問だったのです。現地ではよく停電、断水が発生しますが、それが現地での“当然”なのです。むしろちょっと町郊外に出れば電気・水道のない生活をしているところで、電気・水道は“当たり前”ではなく『超・特別』なものなのです。
便利な日本に暮らしていると南エチオピア滞在時には不便に感じられることも多々あるかもしれません。それでも帰国の頃になると、これらのことも現地の生活を体験できた旅の思い出の一つになっている、それが秘境南エチオピアなのです。

| | コメント (0)

2015年10月14日 (水)

モザイクの町、ラヴェンナ 宝石箱のような教会へ

 先日、イタリアのツアーから帰国しました。

10日間の、ミラノからローマまでのハイライトコースだったのですが、ローマやフィレンツェ、ヴェネツィアのような都市に行くことを楽しみにされていた方が多くいらっしゃったようですが、意外にも、皆様がより感動されていたのはラヴェンナやシエナのような、田舎の町々でした。
そんな田舎町の一つ、ラヴェンナには一体何があるのか・・・とにかくモザイクです。
町の教会や宮殿、廟、様々な建物の中に古くからの美しいモザイクが大切に保管されています。 古くから残されているモザイクもあれば、最近造られた町の標識なんかにも可愛らしいモザイクがあしらわれており、すっかり、モザイクの町といった雰囲気になっています。
モザイクの勉強ができる学校なんかもあり、学生の作品を町中でみかけることもあります。 有名なモザイクを見て周るのではなく、ただ単に、目的もなく歩いてみるのにも魅力的な素敵な町なのです。
ツアーでは3つの世界遺産の建物に訪れました。
まず最初は、サン・ヴィターレ聖堂。 この聖堂の内陣と後陣は、6世紀のガラスモザイクで覆われており、それはもうきらきらと輝いています。
外見は、赤茶けた古い建物なのですが、中はとにかく煌びやかです。
内陣と後陣、クーポラの部分が非常に美しく飾り立てられているのですが、壁だけでなく、床も、びっしりとモザイクで覆われています。
もちろん、6世紀に造られたモザイクすべてがすべて残っているわけではなく、剥落してしまっている部分もあるのですが、かなりしっかりと、当時の様子をみることが出来ます。 描かれているのはユスティニアヌス帝と、皇妃テオドーラ、そして家臣達、あるいは福音書記者のモチーフであったり、様々です。
モザイクの面白いのは、近くで見るとよくわからないものが、離れてみると光と影を表していたりすること。 そして、厳格なテーマのものも、細かなガラス片を一つ一つ繋げてモザイクで描かれることによって、とても可愛らしくなってしまっていたりすることなどなど。
有名なモザイクばかり見るのではなく、ただ、柱の装飾を眺めてみると可愛らしい小鳥がいたりするもんですから、その魅力はもう、ここでは書ききれないくらいです。

ユーラシア旅行社のイタリアツアー、ラヴェンナ、サン・ヴィターレ聖堂

サン・ヴィターレ聖堂の隣にある、小さな建物に向かいます。
これまた世界遺産に登録されているガラ・プラチディア廟です。
サン・ヴィターレ聖堂と同じく、これまた外見は地味な、くすんだ色の建物です。
しかし、その中は、入ると感動で溜息がもれそうな程、まるで宝石箱のようにきらきらと輝きを放つガラスモザイクに出会えます。
中には本当に小さな窓が、3つあるだけ。しかもその窓には、アラバスターという、瑪瑙のような半透明の石がはめ込まれているため、建物に入ってくる光はとても少ないです。 守衛さんにお願いして、入口のカーテンを閉めてもらうと、入ってくる光はアラバスターの窓からわずかに差すのみとなります。 わずかに入ってくるひかりが、天井を埋め尽くす深い青色をした、星空のガラスモザイクに当たって、優しくきらめくわけです。
なんと、この廟の中にいることができるのはたったの5分。
とても足りないですが、小さな小さなこの建物に入りたい人がたくさんいるため、仕方のないことなのです。
ちなみに、この、外見は地味だけど中は煌めく宝石箱のようになっているこれらの建物ですが、この組み合わせ、人間大事なのは外見ではなく中身なのだ!ということを物語っているのです。ちゃんと意味があるんですね。
ガラ・プラチディア廟のような人でありたいと、今回改めてそう思いました。

ユーラシア旅行社のイタリアツアー、ラヴェンナ、ガラ・プラチディア廟

ラヴェンナの観光、最後に訪れるのは、この町の守護聖人「聖アッポリナーレ」の祀られる、サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会です。
町の中心から少し離れ、建物も疎らな所にぽつりと立つ教会。 教会周りの草地には芸術科の学生が造った、バッファローの置物が数匹。 少し不思議な雰囲気の場所ですが、とにかく教会の中に入って行きます。
ここには、ラヴェンナの観光を締めくくるのにふさわしい、素晴らしいモザイクがあります。 羊に囲まれた、聖アッポリナーレのモザイクです。緑を基調とした、明るい色のモザイクなのですが、平和的な、楽園の様子が描かれています。 私たちがこの教会に入った時、中にはほとんど人がおらず、美しいモザイクを独占することが出来ました。 ただぼうっと、ずっと見ていたくなるようなモザイクです。 ひとしきり、この聖アッポリナーレのモザイクを見て、バッファローたちとお別れしました。

ユーラシア旅行社のイタリアツアー、ラヴェンナ、サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会

しかし、なぜ、この町はモザイクの町になったのでしょう。 その理由には、6世紀の東ローマ帝国のイタリア進出が深く関わっています。
当時、東ローマ皇帝ユスティニアヌスがイタリア半島を属州とした時、港町ラヴェンナには、東ローマ帝国のイタリアにおける総督府が置かれました。 それ故に、多くのモザイク等のビザンティン美術の作品が残されたのですが、その後、8世紀に入ると東ローマ皇帝レオ三世が、聖像禁止令を出し、それまでに造られた多くの美術品を破壊してしまいます。 しかし、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルから離れていたラヴェンナの町にはこの聖像破壊運動の波は及ばず、本国では失われてしまった、6世紀、ユスティニアヌス皇帝の時代の美術品が今もまだ残っているのです。
東ローマ帝国の総督府が置かれてから先、ラヴェンナは特に目立って重要な都市にもならず、攻撃も免れた為、そんなに古い建築物がたくさん残り、それらが世界遺産に登録されたのです。 ローマ遺跡や、ルネサンス芸術だけでなく、ビザンティン美術の遺構にも出会える、イタリアという国の奥深さを感じさせられますね。
またバスに乗って、次の町へと向かうのですが、このラヴェンナの町は、いつも去りがたく感じられる町です。 一泊ではなく、二泊、三泊したい。そんな気持ちにさせられる、素敵な町なのです。 次、あの町に行くことができるのはいつだろうか・・・そんなことを改めて考えてしまいました。(留置)

| | コメント (0)

2015年10月13日 (火)

ナミビアの絶景、ナミブ砂漠へ

先日、ユーラシア旅行社の「ナミビア・スペシャル 8日間」に行って参りました。エトーシャ国立公園にてドライブサファリを楽しんだり、世界一美しい民族といわれるヒンバ族の村を訪ねたりと、ナミビアの魅力が凝縮された8日間でした。
一番心に残っているのはやっぱりナミブ砂漠です。ナミブ砂漠は世界最古の砂漠と言われ、ナミビアの大西洋側に、縦長に広がっています。アプリコット色の砂漠はとても美しく、ナミビアが誇る絶景としても知られるようになりました。
ナミブ砂漠を見るなら朝がオススメ!朝日に照らされると、アプリコット色がよりいっそう濃さを増すからです。私たちも早朝に、ナミブ砂漠が広がるナミブ=ナウクルフト国立公園に向けてホテルを出発しました。国立公園の門は日の出とともに開きます。私たちは日の出の少し前に到着しましたが、門の前ではすでに何台かの車の列ができていました。私たちの到着後も続々と車が到着。皆でわくわくしながら、開園を待ちました。
国立公園が開園したら、美しい砂丘として有名なデューン45を目指してバスを走らせました。「デューン」とは砂丘を意味し、門から45キロのところにあるので、こんな名前がついています。
デューン45では砂丘に登ってみました。

Photo

砂はさらさら、一歩踏み出すごとに深く足が沈み込むので、靴に砂が入らないようあらかじめ脱いで、裸足で登りました。じかに砂を踏みしめていると、砂漠に来たんだという実感がよりいっそう沸いてきます。日の当たっていないところはひんやりとしていて、それがまた気持ちいい!デューン45はなかなかの高さがあり、頂上まで登るには2、30分かかりました。しかし上からみる景色はまさに絶景。朝日に照らされてまぶしいほどに濃さを増す砂丘は、本当に美しかったです。(佐藤)

>>>ユーラシア旅行社で行くナミビアの魅力はこちら

| | コメント (0)

2015年10月 9日 (金)

「ロマンチックなドナウ河ナイトクルーズ」

ハンガリー旅行, ハンガリーツアー

ブダペストでロマンチックなドナウ河ナイトクルーズを堪能してきました。先日、「チェコ、スロヴァキアの美都と、ハンガリーの大平原10日間」より帰国いたしました。ツアーは、ハンガリーから始まり、チェコとスロヴァキアの3カ国を10日間で効率よく回る日程です。ブダペスト、プラハ、ブラチスラバ等の歴史ある都市はもちろん、刺繍で有名なカロチャ、パステルカラーのバロック式ファザードが美しいテルチなど、小さい町にも立ち寄る魅力あるツアーです。

その中でも、ハイライトの一つであります「ドナウ河のクルーズ」は、忘れられない思い出の1つとなりました。

ドナウ河は、ドイツを源流として、オーストリア、スロヴァキア等10カ国をめぐり、最後に黒海へと流れ込むヨーロッパの母なる河といっても過言ではない国際河川です。

今回ご案内いたしましたのは、ハンガリーの首都ブダペストを流れるドナウ河のナイトクルーズ。各国からの船が多数停泊している中、皆様専用のクルーズ船をチャーターし、ディナーも船内で召し上がっていただくというロマンチックな時間をお過ごしいただきます。

そんなドナウ河クルーズを更に思い出深いものにしてくれるのが、クルーズ船からでしか眺められない角度のブダペストの夜景です。

ブダペストで最も美しく古いくさり橋は、昼間もさることながら、夜により一層その魅力を増します。くさり橋は、西岸のブダ地区と東岸のペスト地区を結び、輝く電球が夜には鎖のように連なっているように見えることから、くさり橋と名付けられました。

もうひとつ、皆様の目を引く建築物が川辺にたたずんでいます。

国会議事堂です。夜ライトアップされている国会議事堂には、ため息を漏らさずには居られません。誰もが、荘厳たるその姿に圧倒されてしまうほど美しいのです。クルーズ船が国会議事堂の目の前を通る瞬間には、是非カメラで写真を撮る手を休めて、まじまじと見上げていただきたい。そして、その目と心に国会議事堂の美しさを焼き付けてほしいと思います。

クルーズをご堪能いただく時間は約2時間。十分に時間があるかの様ですが、素敵で楽しい時間はあっという間に感じられるものです。お腹一杯、胸一杯になった皆様は、クルーズ船を降りた後も、夢見心地でホテルへの帰路につくのでした。(堤)

>>ユーラシア旅行社で行く、ハンガリーツアーの魅力はこちら

>>ユーラシア旅行社で行く、リバークルーズの魅力はこちら

| | コメント (0)

2015年10月 8日 (木)

地球の割れ目の向こうには…何万年の歴史を持つギャウ(アイスランド)

先日、「アイスランド周遊、秋のオーロラ10日間」のツアーから帰国しました。夏も終わり、長い冬が始まろうとしていました。また、オーロラのシーズンも始まります。アイスランドは北限が北極圏から30キロほどと高緯度にあるため、真冬でなくてもオーロラのチャンスがあります。今回のツアーでも、10日間で3回もオーロラが見られました。この時期に3回も見られるなんて、ラッキーでした。

Cimg0061


アイスランドは地球上で一番新しい国ともいわれます。それは、大陸の下にあるプレートの境目(ギャウ)がある為です。プレート同士が大地を引っ張り合い、新しい大地が生まれます。普通ギャウは海底にあり海嶺と呼ばれ、目にすることはありません。しかし、アイスランドでは地表に出ているため誰でも見て、そこを歩くことができます。地球上でギャウが地表に出ているのは、アイスランドとエチオピアの2か所しかありません。今回のツアーではシンクヴェトリール国立公園にある、世界最大のギャウ、アルマンナギャウに訪れました。バスから降りたところはユーラシアプレートの上、20分ほど歩いてバスに乗った場所は北米大陸プレートと不思議な場所でした。プレートが動くといえば地震のイメージですが、1年に2センチと僅かに広がるぐらいだそうなので、ここで毎日地震が起こっているというわけではありません。

Cimg0006


また、このギャウは世界で初めて民主議会が行われた場所であり、歴史的にも大変重要です。無人島だったアイスランドに北欧のバイキングが最初に入植した900年代、法律を定めたり、犯罪者を裁いたりするために、この場所で民主議会が開かれました。ここが選ばれた理由は、プレートの動きによってできた断層が大きな壁となり、マイクがない時代でも大きな声で話すと声が反響し遠くまで響く為だそう。まだ国の始まりがはっきりと解明されていないアイスランドの数少ない古い歴史が根づく場所でもあります。
5年前までは世界中であまり知られていない国でしたが、2008年の財政破綻や2010年の火山の噴火などで、世界に知られるようになりました。きっかけは暗いニュースでしたが、そのおかげで知名度が上がり観光客も増え、今や主要産業に観光業が入ってきているそう。道路も整備され、以前より観光がしやすくなっているアイスランド、現在はヨーロッパの秘境というイメージですが、旅先としてメジャーな国になる日も近いのではないでしょうか。(杉林)

| | コメント (0)

2015年10月 7日 (水)

トリック写真も水鏡も!?いいとこ取りのウユニ塩湖(ボリビア)

先日、ユーラシア旅行社の「絶景のレンソイスとウユニ塩湖、感動のハイライト 12日間」の添乗より帰国致しました。南米を代表する2つの絶景。ブラジルのレンソイスの白砂漠も、ボリビアのウユニ塩湖も、どちらも言うまでもなく素晴らしかったです。太陽の光を浴びてキラキラと乱反射する白砂漠と、果てしなく続く塩の大地。息をのむほどの圧倒的なスケールは南米ならではないでしょうか。

Uyuni_dry

日本で爆発的な人気を誇っているボリビア・ウユニ塩湖。日本でおなじみなのは12月から3月の雨季の時期に見られる塩湖に水が張ったウユニ塩湖。日本の各メディアでも雨季のウユニ塩湖の絶景が取り上げられるようになり、「水鏡みたいなウユニ塩湖が見られるのはいつ?」というお問合せも多く頂戴します。しかし、乾季のウユニ塩湖も負けてはいません。乾季には雨季に溜まっていた水も全て干上がり、真っ白な塩の大地が広がります。4WDでどこまで走っても続く真っ白な大地に、雲一つない真っ青な空。車窓からは風景に変化があるわけではないですが、いつまで眺めていても飽きることはありません。乾季のウユニ塩湖では行動範囲も広く、トゥヌパ火山の麓にあるコケサ村ではプレインカ時代のミイラを見学したり、塩湖の中央に位置する巨大サボテンが生えたインカワシ島の頂上に登り、360度見渡せるウユニ塩湖の大パノラマを満喫しました。もちろん、乾期のウユニ塩湖で欠かせないのはトリック写真撮影大会!ガイドさんのカバンをひっくり返すと出てくる、出てくる…。恐竜、怪獣、スーパーマンなどの人形たち。これを使って、遠近法をうまく活用して撮影するのですが、どれだけ面白い写真が撮れるかは皆さんの演技力と表現力しだい。恐竜に追いかけられたり、スーパーマンと死闘を繰り広げたりと、オリジナルのトリック写真を目指します。ポーズによってはずっと中腰だったり、足を挙げたりと、普段使わない筋肉を使います。翌日筋肉痛になる方もいらっしゃいましたが、それだけ面白い写真が撮れたということでしょう!ご一緒したお客様たちといろいろな写真に挑戦していると時間はあっという間に過ぎてしまいました。

Uyuni_rain

また、四国のおよそ半分という大きな塩湖の中には、乾季でも一部水が残っているところがあります。今回のツアーでは、夕日の時間帯に合わせて、秘密の(?)その場所まで足を延ばしました。夕日を堪能した後、暗くなってしまう前に写真撮影!と気合を入れたら、長靴に履き替え、水面を揺らしすぎないようにゆっくりゆっくりと水の中に足を踏み入れます。日が落ちたばかりの空はオレンジ色と薄紫になりとても幻想的。それを背景に一列に並びシャッターを切る。撮れた写真は雨季の時期に撮影するものと同じ!乾季でありながら、雨季のウユニ塩湖の楽しみ方も味わうことができました。(市川)

ユーラシア旅行社で行くウユニ塩湖ツアーの魅力はこちら

| | コメント (0)

2015年10月 6日 (火)

今なお現役!2016年の世界遺産候補を巡る五島列島の旅

Cimg0028 先日、ユーラシア旅行社で行く「五島列島巡礼の旅 4日間」より戻って参りました。

五島列島といえば、おそらく2016年には新たに世界遺産に登録されるであろう、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」で注目を集めています。今回の旅も、中通島、奈留島、久賀島、福江島を巡りながら、その世界遺産候補の教会群を訪ねました。
教会巡りをしていると、必ず耳にするのが鉄川与助氏の名前。鉄川氏は生涯仏教徒でありながら、西洋建築を学び、生涯で30を越える教会の設計・建設に携わり、その代表作には長崎市の浦上天主堂があります。そして、五島列島にも彼が手掛けた教会が多数残り、私のお気に入りは、可愛らしい外観と爽やかな色が特徴的な奈留島の江上天主堂でしょうか。

1918年に竣工され、現在では国の重要文化財にも指定されています。この教会の建設に際して、使われたのは人々の私財でした。少なくない建設費を少しでも軽減させる為に、ステンドグラスには手書きで花が描かれ、木の柱にも高級感を出す為に手書きで木目が描くなど、様々な工夫が施されました。内部を見学すると、そういった素朴な雰囲気が伝わり、外観と相まって何とも言えない印象を与えてくれます。

Cimg0044
五島列島巡礼の旅...となっていますが、見所は教会群だけではありません!キビナゴをはじめとした五島列島の海の幸、日本三大うどんのひとつ、五島うどん、そして五島牛などの日本ならではの美味な食事が続き、更には美しい海や手つかずの自然が眼前に広がります。

素朴な素朴な五島列島。2016年、世界遺産登録が叶えば、一斉に観光客の増加が予想されます。私たちが見た教会群の一部は、現在でも現役の教会で、信者さんたちが大切にしている祈りの場でもあります。これから訪れる方、いつか行ってみたいと思う方、そういった祈りの場の雰囲気が、五島の魅力のひとつということを感じてみて下さい。(吉村)

日本ツアー特集はこちらから

日本ツアーはこちらから

| | コメント (0)

2015年10月 2日 (金)

いつでもどこでも絶景が楽しめる町、グリーンランド・イルリサット

 この度、ユーラシア旅行社の「氷山の町、グリーンランド・イルリサットとアイスランドの大自然12日間」より帰国しました。
 アイスランドと言えば、2010年の火山の噴火が皆様の記憶にも新しいと思います。もくもくと上がる噴煙の映像が世界中のテレビで写しだされ、それが、世界の人がアイスランドに興味を持つきっかけとなったようです。手つかずの自然が美しく、平和で心温かい人々の住む素敵な国だという事も徐々に世界中に知れ渡りました。
 今回のツアーでは、最初にアイスランドをぐるっと一周巡り、最後にグリーンランドのイルリサットに渡りました。

イルリサット

 イルリサットはグリーンランドの西岸中部に位置する、「氷塊」という意味の町です。町のすぐそばには氷河があり、押し出されて来た氷山が大西洋に流れ出る前に、水深の浅いディスコ湾に留まるので、イルリサットの町からはいつでもプカプカと浮かぶ氷山が見えているのです。
 他に類を見ないこのイルリサット氷河は2004年に世界遺産に登録されました。
町の港には沢山の小さな漁船。その周りには氷のかたまりが浮いています。人々は氷をよけながら漁にでるそうです。イルリサットの人々にとっては当たり前の光景、まさに氷山と共に暮らしているんだな~と実感しました。
 イルリサットでの楽しみはハイキングとクルーズです。

セルメルミュート

 ハイキングでは、昔のイヌイットの住居跡が残っているセルメルミュートを訪れました。すっかり秋色に染まった溶岩台地に、所々緑の苔やワタスゲが見えとても綺麗でした。
 木道がしかれた平坦な道をしばらく歩くと、ディスコ湾に浮かぶ氷山が見えてきました。赤い大地の向こうに見える青い海、そしてそこに浮かぶ白い氷山。日本ではありえないこの光景に、感動で言葉もでませんでした。
 ガイドさんが用意してくれたクッキーとジュースで休憩した後は、何度も後ろを振り返りながら町に戻りました。

セルメルミュートから見える氷山

続きを読む "いつでもどこでも絶景が楽しめる町、グリーンランド・イルリサット"

| | コメント (0)

2015年10月 1日 (木)

宗教迫害への抵抗のシンボル、十字架の丘を訪ねて。(リトアニア)

バルト三国ツアー,バルト三国旅行
先日、ユーラシア旅行社の「バルト三国を極める旅11日間」より帰国しました。バルト三国の地方都市も訪れるこのツアー。世界遺産の旧市街の街並みも大変魅力的でしたが、私を魅了したのはリトアニアのシャウレイ近郊にある十字架の丘です。丘と言っても、少し地面が盛り上がっている程度の砂山のようですが、ここには、リトアニアの人口290万を超える数の十字架が立てられており圧巻です。

ここに最初に十字架が立てられたのは、1847年のことで、重病にかかった近所の住人が回復したら十字架を立てようと誓っていたところ、見事に全快したのでその約束を実行したのが始まりです。この話が広まり、3年後には20の十字架が立てられますが、より多くの十字架が立てられるようになったのは、帝政ロシアの圧政に苦しめられていたリトアニア人が1863年に蜂起して、多くの犠牲者を出すようになってから。人々は蜂起での犠牲者やシベリアに追放された多くの人々を悼もうとしますが、ロシアにより家などに十字架を建てることが禁止されたので、ここに持ち寄ったそうです。ソ連により2度ほどトラクターで撤去、焼却されましたが、一夜にして多くの十字架が再び立てられます。ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世がここで祈りを捧げて以降、ここは宗教迫害への抵抗のシンボルの地となりました。

バスを降りて駐車場から丘へ向かう途中、様々なデザイン、大きさの十字架の売店があります。ここを訪れた際は、お好きなところに十字架を立ててみてはいかがでしょうか?目指せ300万本!(瀬戸)

「ユーラシア旅行社で行く、バルト三国ツアーの魅力」

| | コメント (0)

« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »