ゲバラ日記のすゝめ(ボリビア、ゲバラ終焉の地・バジェグランデ)
近年、空前の「ウユニ塩湖」ブームで話題の国、ボリビア。世界一標高の高い首都・ラパスやそこに暮らす先住民のアイマラ族、銀の街ポトシやボリビア誕生の地スクレなど、まだまだ失われていない素朴さがボリビアの人気の理由。しかし、魅力はそれだけではありません。今回のツアータイトルは、ずばり「ウユニ塩湖とゲバラ終焉の地、ボリビア世界遺産紀行11日間」。〝知られざる〟もうひとつのボリビアのハイライトを巡ってきました。
〝エルネスト・チェ・ゲバラ〟誰もが彼の名を聞いたことがあるでしょう。1950年代、バチスタ軍事独裁政権に対しゲリラ戦を繰り広げ、キューバ革命を成功させた英雄。キューバのみならず今尚、世界中の多くの人々の心を惹きつけて止まないヒーローです。輝かしい功績を残したキューバ革命の後は、アフリカのコンゴ、そしてボリビアでゲリラ戦を展開し、帝国主義国の搾取に苦しめられている地で戦い続けましたがいずれも失敗。最終的にはボリビアのアンデス山中で捕えられ射殺されてしまいます。その後、ボリビア政府軍によって遺体は隠され、30年後の1997年に発見された・・・というエピソードは何度かこのブログで紹介されていますので、今日はちょっと違った観点でお話しします。
「ゲバラ日記」という本をご存知でしょうか。その名の通り、チェ・ゲバラ自身がアンデス山中に潜伏していた日々の事を綴った日記です。如何なる瞬間も油断を許さないという状況の中で、淡々と客観的に綴った彼の野戦日記には、〝いつ、どこの村で何を調達した〟とか〝○○村から何キロ地点で、誰其が負傷〟など、毎日の記録をかなり詳細に記録しています。そのお蔭で、ゲリラ戦から48年経った今でも、ゲバラ達の確実な歩みを、私たちは知る事が出来るのです。又、共に戦った同士達もそれぞれが日記をつけており、ゲバラが捕えられるまでの一連の動きや、チューロ渓谷の戦闘の様子を知る手がかりになります。
ボリビア・サンタクルス州、私たちを乗せたバスが青々と草木が茂るアンデス山脈にさしかかると、現地ガイドは何度かバスを止め、「さぁ、ここでフォトストップだ。」と言いました。誰もが「こんな所で?何もないのに」という気持ちでしたが、実は、こういう何の変哲もない、荒々しい自然と隣り合わせの田舎の村こそがゲバラ達が歩んだ、ゆかりの土地なのです。サマイパタへ向かう道中、数軒の民家が立ち並ぶ小さな集落で聞いた、ガイドの話が印象的でした。「‘67年7月16日、当時はここに一軒の民家しかなかった。ここからゲバラは日用品や薬(特に彼自身の喘息の発作を和らげる薬)を手に入れるため、6人の戦士をサマイパタの町へ送ったんだ。彼らは、この道の前に立って、ヒッチハイクをしようと車を待ったんだが、サマイパタへ向かう車は一台も通ることはなく、6人を歩いて行かせた。結局、町へ行っても喘息の薬は見つからなかったが、ゲバラはこの村唯一の民家で彼らの帰りを待たせてもらった。その後、ゲリラ達は私たちの後方に続くこの獣道を進んで行った。」
この48年前のエピソードは、あまりにも鮮明な状態でガイドの口から説明されたので、まるで数日前に起こった出来事で、武装した彼らが大きなリュックサックを背負って、鬱蒼とした茂みの中を歩いていく姿を錯覚してしまいました。
また、ゲバラが暗殺された後の5人の生き残りゲリラ兵の逃避劇も凄まじいものです。国外脱出を試みて、ほとんど地球一周の逃避行、そして遂に、彼らの祖国であるキューバへの帰還。それを心待ちにしていたフィデル・カストロの強い抱擁・・・
ゲバラが活躍した時代を記憶されているお客様が多いように、生き残ったゲリラ兵や敵として戦った政府軍もまだまだ健在の現在。私たちにとっては、幸いなことに多くの回想録が出版され、当時彼らが抱いていた強い闘争心や正義感などもリアルに近い状態で知ることができます。キューバを旅して、ゲバラに心動かされた方には是非訪れて頂きたい、ボリビアの「ゲバラ終焉の地」。その際は、「ゲバラ日記」などの文献が旅の見聞を何倍も広げてくれるでしょう。(三橋)
最近のコメント