国境と歴史の島、対馬を訪ねて(日本)
先日、「魏志倭人伝が息づく島・壱岐と防人の島・対馬 4日間」より戻りました。 ところで壱岐・対馬ってどこにあるの?と思われる方も少なくないと思います。実際、出発の羽田空港にてツアータイトルを大きく書いた看板を持ってお客様を待っている時も、他の団体旅行のお客様からは「これってどこにあるの?」と何度も尋ねられました。
日本地図を広げてみて下さい。 壱岐、そして対馬は九州と韓国の間の海峡に浮かぶ島で、長崎県に属しています(福岡県の北にありますが、実は長崎県なんです)。 そこは手付かずの美しい自然に囲まれた島、と言うだけでなく、日本史の中でも重大な役割を担ってきた島でもあるのです。特に対馬は福岡までは約138kmですが、お隣の韓国までの距離は約50kmという、まさに国境をなす島。古代より大陸から青銅器や仏教などを日本に伝える窓口的な役割を果たし、朝鮮半島との交流も盛んに行われてきました。そんな歴史の宝庫の対馬のガイドさん曰く、「ほとんどのツアーでは半日、もしくは一日観光だけで帰ってしまうお客様も多いです。」とのこと。私達は2泊することにより、南北82km、東西18kmの細長い島を、北の端から南の端まで堪能することが出来ました。
対馬には見所が盛りだくさん。石川の前田家、山口の毛利家と共に日本三大墓地と言われる万松院にある旧対馬藩主・宗家の墓。竜宮伝説の和多都美神社、元高麗連合軍の襲来で戦死した将士の霊を祀る小茂田浜神社、更には対馬にのみ生息する天然記念物ツシマヤマネコとの出会い、そして北の展望台に最南西端の豆酘﨑、などなど。そんな中でハイライト的観光地ではないものの印象に残ったのが西の漕手と万関橋でした。対馬の地図を見ると、南北の二つに分かれた島で、そこを橋で結んだのだと思われがち。でも実際は、もともと一つの島で繋がっていたものを人工的に分断したのだと言うことに、まず驚きました。島が陸続きだった頃、船が東西の海域へ航行するのは大変困難なことで、小舟は東から西へ渡る際、人が引っ張り丘を越えて行き、大船は積荷を降ろし、船を乗り換えたそうです。その場所が西の漕手と言われ、7世紀~9世紀の遣唐使や空海も通ったそう。そんな陸続きの対馬は山地89%で平地が極端に少なく、東西への移動の困難さから江戸時代には対馬藩により大船越を、そして明治時代には万関瀬戸という運河を開削したことで、船が東西の海域を行き来することが容易になったのだと。島を人工的に分断した・・・。岩盤多きこの土地を船も運んだことも大変だが、削り開いたこともどれだけ大変だっただろうか。昔の風景が目に浮かんでくるような、私にはそんな場所でした。(岩間)
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