オーストリア帝国実質「最後」の皇帝フランツ・ヨーゼフの歴史を辿る
先日、「オーストリア、世界遺産巡りと湖水地方の旅」より戻って参りました。
今年の9月4日で就航が終わってしまう成田‐ウィーン間のオーストリア航空直行便でウィーンへ到着した後、素晴らしい世界遺産の数々を巡り、湖水地方では天気に恵まれ絵のような風景をお楽しみ頂きました。
今年は、オーストリア帝国の実質「最後の」皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世が没後100年であり、現地で賑わいを見せています。フランツ・ヨーゼフは、最後の皇帝と呼ばれるだけあり、その人生は壮絶なものでした。
ハプスブルク家に生まれたフランツ・ヨーゼフは、1848年にヨーロッパ各地で起こった3月革命により叔父のオーストリア皇帝フェルディナンド1世が退位し、18歳の若さで即位しました。フランツ・ヨーゼフの祖父はフランツ1世ですが、新皇帝を「フランツ2世」ではなく「フランツ・ヨーゼフ1世」との複合名にしたのは、当時の革命の状況が危機的であったため、自由主義者から愛された神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世を彷彿とさせることが目的でした。
若くして即位したフランツ・ヨーゼフは、オーストリア領イタリア北部やハンガリーの独立、運動の弾圧やハンガリー愛国者による暗殺未遂事件など、数々の問題に悩まされますが、美貌で知られるエリザベートとめでたく結婚しました。もともとフランツ・ヨーゼフの母ゾフィ大公妃が目を付けていたのは、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の公女ヘレーネ・イン・バイエルンでしたが、お見合いの日にフランツ・ヨーゼフを社交界に慣れさせるために連れてこられたヘレーネの妹エリザベートに一目惚れし、母の希望を押し切り彼女と結婚しました。しかし、フランツ・ヨーゼフがあまりにも多忙であったため、言葉を交わす時間も無くなっていきます。さらには、エリザベートは姑との関係が悪くなり宮殿に寄り付かなくなり、頻繁に周辺国へ旅に出かけるようになりました。二人の間に生まれた皇太子ルドルフは両親から引き離され、教育はフランツの母ゾフィ大公女によって行われ、家族への不信感が生まれる結果になりました。結局、両親に続くかのように、ルドルフも自身が築いた家族と上手くいかず、愛人と心中するというマイヤーリンク事件が起きてしまいました。さらに、息子に先立たれたフランツ・ヨーゼフの悲劇は続きます。1898年には皇后エリザベートが旅先のジュネーブでイタリア人無政府主義者に暗殺されました。この突然の知らせに、悲嘆のあまり「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れたそうです。
そして、あの有名な事件が起きました。フランツ・ヨーゼフが1908年にボスニアとヘルツェゴヴィナの併合に踏み切った後、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公がサラエボを視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年によって暗殺されました。このサラエボ事件により、オーストリアを始めとするヨーロッパ諸国は第一次世界大戦へと突入していきます。第一次世界大戦により、オーストリアは帝国の地位を失い、ハプスブルク家列強の座から転がり落ちました。そして、戦時中の1916年11月にフランツ・ヨーゼフ1世は肺炎にかかり、シェーンブルン宮殿でこの世を去りました。86歳でした。
数々の悲劇の中を生きたフランツ・ヨーゼフですが、68年に及ぶ長い在位と国民からの絶大な敬愛から、オーストリア帝国の「国父」と称されていました。また、オーストリアの象徴的存在となり、「不死鳥」とまで呼ばれました。ウィーンの周りを囲んでいた城壁が撤去され、現在のリングシュトラッセ(環状道路)の姿になったのも、彼の時代です。
現在でもオーストリア国民は彼を愛し、没後100年である今年2016年、11月27日まで各地で特別展が開かれています。ツアー中にご案内させて頂くシェーンブルン宮殿のベルグルの間では、彼の両親や子供たち、幼少時代、即位後など、様々な出来事を紹介した「フランツ・ヨーゼフ特別展」が開かれています。彼が置かれた立場や複雑な心境を感じ、オーストリア苦難の歴史を知ることができました。
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