2016年9月19日 (月)

8月・東京から空路約2時間でロシアへ!(サハリン) その3

『サハリン』というとぴんとこない様子で『樺太』というと「あぁ、(どこかで)聞いたことある。(けれどもどこかよくわからない。)」と私の学生時代の友人たちから返ってきた言葉でした。サハリンという単語には反応がいまいちでしたが、江戸時代に最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を極東を調査した彼らの名前や1809年間宮林蔵が海峡を越えて大陸にいたり、サハリンが島であると発見したことで名付けられた“間宮海峡”(タタール海峡)は歴史や地理で習ったことで名前の認知度は高かったのですが、やはり“何処か”となると「何処だったかな?」という返答・・・。1905年日露戦争後に取り交わされたポーツマス条約にてサハリン島の北緯50度線より南半分は、日本領「樺太」となりました。その為、多くの日本人が移住し、鉄道を敷設し、林業、炭鉱や製紙工場などの経済活動が盛んになりました。しかし終戦後のサンフランシスコ条約締結(1951年)にて日本は樺太・千島を放棄。樺太に住んでいた日本人は、北海道等へ移住し、以後1989年まで軍事拠点となり外国人の立入り禁止区域となりました。日本ではなくなってから約65年の歳月が流れた現在、樺太時代の日本人が住んでいた町々を訪れると僅かばかりの日本時代の跡が、多くは廃墟となって残っていました。林業が盛んだったことを象徴する巨大な旧王子製紙工場跡(現在は廃墟となっていたり、一部をボイラーや倉庫などとして活用)。頑丈に出来た石造りの建物である旧拓殖銀行は、日本人が引き揚げた後も何かと利用され、綺麗な外観のまま残っていました。

旧白浦神社の鳥居

神社なども昔は各地にあったそうですが、現在では社は残っていないものが多く、ぽつんと郊外の草むらの中に残る旧白浦神社の鳥居や自由時間にご希望の方と一緒に探したユジノサハリンスク(豊原)の山中草むらのなかにほんの一部の基礎を残すのみの護国神社や民家の裏の山中に残っていた樺太神社を見つけましたが、そこへ行くための方向を示す看板などは一切ありませんでした。また学校関係では、校舎は残っていないけれども奉安殿だけが残っているのも見かけました。日本本土ではGHQによる撤去により奉安殿は戦後、学校からなくなりましたが、戦後生まれの私はサハリンで初めて見るものとなりました。私の祖父母が子供の頃に学校という場所で当然にあった過去の遺物と日本の歴史にほんの少し触れられたような気がしました。
つづく(4回シリーズ/第三回)

|

ユーラシア旅行社の中欧・東欧情報」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。