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2017年5月

2017年5月31日 (水)

じゃがいも好き必見!ポーランドの魅力あふれる「ポテトパンケーキ」

先日、「連泊で楽しむポーランド8日間」の添乗より戻ってまいりました。このツアーでは、グダニスク・クラクフ・ワルシャワと、ポーランドの主要な3都市を訪れました。特に魅力がよく感じられるのが、ポーランドの名物料理の数々です。

ポーランドには、ポーランド人以外にユダヤ人・リトアニア人・ドイツ人など、その他多くの民族の食文化が入り、伝統料理のバラエティが非常に豊かとなりました。ポーランド料理は家庭料理から生まれ、素朴な味ですがとても美味しく、日本の方にも大人気です。ポーランドの厳しい冬に体を温める数々のスープ、ポーランド風餃子のピエロギなど、日本人好みの料理がたくさんあります。

キノコスープ

その中でも私が最も好きなポーランド料理が、「placki ziemniaczane(プラツキ・ジムニアチャネ)」。こちらでは「ポテトパンケーキ」と呼ばれています。女子高生に人気が出そうな名前ですが、これもポーランドの家庭料理で作り方は至って簡単です。摩り下ろしたじゃがいもと玉ねぎ、塩と胡椒、卵、小麦粉、を混ぜて焼くだけです。ポテトがカリッとしていてそのままでも美味しいですが、そこに各家庭、レストラン特製のソースをつけて食べられます。特に、シチューのようなグラーシュと食べられることが多いです。これが味わい深く、ポーランド人の温かさをよく感じることができます。北欧・東欧でも広く食べられていますが、ポーランドのポテトパンケーキが一番美味しいです。ポーランドでは、ツアー中に1度、そして自由食でもう1度、合計2度も食べることができます。ポテトパンケーキでお腹も心も満たされたポーランド8日間でした。(松本)

ポテトパンケーキ

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2017年5月30日 (火)

南インド・マーマッラプラムの2つの寺院

先日、ユーラシア旅行社の「南インドの楽園ケーララとドラヴィダ文化探訪 8日間」のツアーより帰国致しました。
南インド最大の都市チェンナイ(旧名マドラス)よりベンガル湾沿いに南へ約60km下ったところに位置するマーマッラプラム。パッラヴァ朝時代(3~9世紀)において、貿易港として栄えた町で、7、8世紀に建てられたヒンドゥー教の寺院群が世界遺産に登録されています。ここで面白いのが、同じ町にある寺院でありながら、7世紀のものと8世紀のものでは建築方法が異なること。つまり寺院建築の進化過程を目の当たりにできるのです。
まず7世紀の半ばに造られた「5つのラタ(ラタとは神の乗り物である寺院や山車を意味します)」。建物そのものや屋根の形が全て異なるのが非情に興味深いですが、これらのラタは皆1つの巨大な花崗岩から造られた石彫寺院です。ということは、巨大な岩を運搬することもままならない時代でしたので、寺院が建てられたのは必然的に岩場の近くということになります。

5つのラタ

そして8世紀初頭。ここで「建築革命」が起こるのですが、それを見ることができるのが上記の「5つのラタ」からわずか1kmほどの位置にある「海岸寺院」です。どのように変わったかと申しますと、巨大な岩ではなく、切石を積んで建立した寺院なのです。ということは、それまでは寺院の造営場所が限られていましたが、石を小さく切ってしまえば運搬も容易になり、それによりどんな場所でも寺院を建てられることが証明されたのです。

海岸寺院

そしてインド各地にヒンドゥー教寺院が数多く建てられ、インド北部、南部と建築様式がそれぞれ異なるようになっていきました。とりわけ南インドでは「ゴプラム」と呼ばれる彫刻が施された高い屋根を持つ塔門をあちこちで見ることができますが、石積寺院の原点である「海岸寺院」の屋根から派生していると思ったのは、私だけではないはずです。

ゴプラム(マドゥライのミナークシ寺院)

何の知識もなしに遺跡の建造物を見て感動することも多いかと思いますが、いろいろな歴史背景を頭に入れつつ見学すると、より一層旅に深みを与えてくれるに違いありません。(斉藤信)

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2017年5月26日 (金)

自然あふれる騎馬民族の国カザフ・キルギスで感じた日本

先日「遊牧の大地を行く、カザフ・キルギス紀行」の添乗より帰国しました。
まずカザフスタンのアルマトイから旅が始まり、キルギスに入り、イシク・クル湖をぐるっと1周して、再びカザフスタンに戻るという日程でした。
バス移動の長いこの旅、ずーっと車窓に天山山脈が見えていました。あの三蔵法師も天山山脈を越えて天竺(インド)に向かったと言われています。
さらに、キルギスへ入ると天山山脈に加えてイシク・クル湖の美しい青が車窓を彩ります。イシク・クル湖の透明度、深さは世界第2位と言われています。(1位はロシアのバイカル湖)
イシク・クル湖ではクルーズもしましたが、下を向くとエメラルドグリーンの湖、少し顔をあげると360度パノラマの天山山脈、見上げるとさわやかな青空。心が洗われるようでした。

日本ではまだまだなじみの薄いカザフ・キルギスですが、ツアー中は日本を感じさせる場面がありました。
まず、道を走っていると両脇に満開の桜!

天山山脈と満開の花

かと思いきや、実はこれ桜によく似た杏やリンゴの花。今回はゴールデンウィークに訪れ、日本ではもう春は過ぎてしまっていましたが、もう一度お花見をすることができました。

また、カザフ、キルギスには日本人とよく似た顔立ちの人が多くいます。今回、騎馬民族の少年たちの騎馬ゲームというゲームを見せてもらいました。「アリガトウ」と言って私達を出迎えてくれた少年達。14歳から20歳くらいだそう。顔立ちは日本人と変わらず、頭は坊主、よく日焼けをして、一見、甲子園の野球少年のようです。馬に乗ってのコイン拾い、ヤギをボールにしたサッカー、本物の騎馬戦、そして競馬。みんな無邪気に楽しんでいるようでしたが、こんな見事に馬を操るだなんて、騎馬民族のDNAを感じました。なんと最後には3歳の騎馬民族の男の子が馬の上に立ってポーズを決めてくれました!

馬の上に立つ騎馬民族の子供

そして、最終日、民族音楽ショーを観劇しながらの夕食でのことでした。中央アジア名物プロフ(中央アジア風チャーハン)に皆さま舌鼓。ふと民族楽器を奏でていたおじさんが急にメモを片手に立ち上がりました。そして片言の日本語で私達への手紙を読んでくれたのです。
更に感動したのは、民族楽器で奏でる「君が代」の演奏です。歌い手はもちろん、

先程のおじさん。最後は皆様で国歌斉唱をし、帰路へと着きました。

人の温かさ、ご飯のおいしさ、景色のよさ。どれも1級品でした。(松永)

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2017年5月25日 (木)

陽光きらめくマルタの海へ

先日、「陽光のマルタをめぐる 8日間」の添乗より帰国致しました。
皆様、マルタといえば何を思い浮かべるでしょうか。未だ謎が多い巨石神殿、マルタストーンとも呼ばれる蜂蜜色の可愛い石灰岩の家並み、聖ヨハネ騎士団、門外不出のカラヴァッジョの絵画など、マルタの魅力は尽きません。その中でも今回は、「海」という焦点に絞ってマルタの魅力を探っていきたいと思います。
マルタ共和国は、マルタ島とゴゾ島、コミノ島の3島からなる国です。今回のツアーでは、ブルーラグーンが絶景のコミノ島へも足を運びました。コミノ島は、無人島の石灰岩の島です。そんなコミノ島には、5月にもなると地中海の燦々と降り注ぐ太陽の光を求めて、日照時間の少ない北欧やかつての統治国イギリスなど、世界各国から観光客が訪れます。(そのため、海の家を経営する1家族のみ夏の間だけ住むとか)そして何よりコミノ島を訪れる人々を魅了するのは、透き通った海の色!!今回、私たちはゴゾ島からコミノ島へボートで向かったのですが、コミノ島に近づくにつれて海の色がコバルトブルーからマリンブルーへ変わり、海上からでも海の透明度を実感できました。コミノ島の魅力は、上陸してからも続きます。

コミノ島

石灰岩の丘を登ると、石灰の白砂に反射されたブルーラグーンを望みます。そこではなんと目を疑うような光景が!まるで船が浮かんでいるように見えるのです。太陽の光の差し込み方や船の影の向きによって、浮かんでいるように見えたり、見えなかったりしますが、目をこすると不思議と船が宙に浮かんでいるように・・・見えますでしょうか??
「死ぬまでに一度は見たい絶景」特集で話題のイタリアのランペトゥーザ島(マルタより南西に位置しています)も、コミノ島と同様に透明度が高く船が宙に浮かんでいるように見えるのですが、同じような光景をマルタでも見ることができるのです。
 

また、マルタといえば、聖ヨハネ騎士団がオスマントルコを打ち破った場所。入り江が多い、その特異な地形の利点を生かして、強固な要塞を建設しました。スリーシティーズ(ヴィットリオーザ、セングレア、コスピークワ)を拠点とし、1565年ついにマルタ大包囲戦にて、はるかにしのぐ軍勢のオスマントルコ軍を破ったのです。そして、いつ再び襲ってくるかわからないオスマントルコ軍に備えて、聖ヨハネ騎士団はさらに強固な要塞「ヴァレッタ」を建設したのです。そのヴァレッタがスリーシティーズと比較するといかに何重にも強固に作られているか、海の上からみると人目瞭然。海上からヴァレッタを眺めると、自分たちがまるでオスマントルコ軍になったかのようにその強固な要塞が迫ってくるようでした。

ヴァレッタ

地中海の要衝としての機能を今もなお果たす、小国マルタ。海という観点からみると、また違ったマルタの一面に出会えました。(角田)

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2017年5月24日 (水)

セボルガ公国を知っていますか?

 この度、ユーラシア旅行社の「欧州小さな国々、夢紀行」より帰国しました。
 10日間の旅で駆け巡ったのはなんと9ヶ国!リヒテンシュタイン、サンマリノ、ヴァチカン、モナコ、アンドラの5小国とその周辺国のスイス、イタリア、フランス、スペインです。
これだけ広範囲の旅ではどこでもドアがあると便利ですが、列車を利用する事で意外とちゃんと観光できました。

教会

 今回の旅では「セボルガ公国」にもご案内しました。
 世界中を旅している旅のベテランのお客様でも、思わず「どこ?そこ!」と言ってしまいそうでね。それもそのはず、セボルガ公国は「自称独立国」なのです。
 国として成り立つためには3つの条件があるそうす。①土地②統治する人③他国からの承認。セボルガ公国は③がないため、「自称」独立国なのです。
 セボルガ公国の面積はたったの15?、人口320人。イタリア北部の地中海側、フランスとの国境のすぐ近くにあります。周辺の景色も美しい山間部にあり、小高い丘のような中心広場からは遠くに光が当たって輝くモナコ公国が望めました。

セボルガ国境

 現在のセボルガ公国はイタリア政府からはセボルガ村とみなされていますが、中世には独自の領域となり、領主のレリノ修道院長が神聖ローマ帝国から公爵に叙せられた事から公爵領(公国)となった由緒ある国なのです。
 1861にはサルディーニャ王国を母体としたイタリア王国が建国されましたが、編入過程が明確ではないという主張から、初代セボルガ公のジョルジョ1世が1960年初頭に独立回復運動をしました。

騎士団ゆかりの品々

 今回セボルガ公国をガイドしてくれたのが、セボルガ大公妃。現在二代目の大公とは15歳の時に知り合ったというとても美しい女性でした。
かつての造幣局や洞窟礼拝堂、シトー派の僧院跡など、公国の歴史を学びながらの散策です。
 テンプル騎士団ゆかりの土地という事もあり、所どころにそれらしい壁画や紋章などがあります。
 小さい村ですが、石畳の狭い路地が中世の雰囲気を残していて、とても素敵な国(村)でした。

セボルガパスポート

 セボルガ公国のお土産には手作りクッキーやワインがお勧めです。また、セボルガパスポートも作れます。日本から証明写真(お気に入りの写真でOKです)を持っていけば、その場で特別な書類に張り付けて国の紋章の印を押してくれます。
 ご希望の方はユーロから現地通貨のセボルガ・ルイジーノへの両替も可能です(1ルイジーノ=約6ドル)
 中々訪れることの無い自称独立国、せっかく行くなら徹底的に独立国として楽しんでみるのはいかがでしょうか?
(関根)

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2017年5月23日 (火)

修道士の自治共和国アトス(ギリシャ)

先日、「ギリシャ物語 15日間」より帰国致しました。
   今回は、15日間かけて、定番のアテネはもちろん、人気のメテオラの修道院、白い家と青い屋根が印象的なサントリーニ島、また、アレクサンダー大王の生誕の地、マケドニア地方まで足を延ばしました。
   中でも、私が印象に残っているのが、女人禁制のギリシャ正教の聖地、アトスです。

1705231_2 アトス山は、テッサロニキの南東にある、先が3本に分かれたハルディキ半島の一番北側のアトス半島の先端にあります。アトス半島の付け根にある港からクルーズに乗り、聖地を海から眺めました。
 何故アトス山が聖地になり、また、女人禁制になったのか、そこには一つの伝説があります。
 ある時、聖母マリアが聖ヨハネを伴ってキプロスへの旅の途中に激しい嵐に見舞われ、アトスに停泊をせざるを得なくなりました。下船したマリアはアトスの異教の偶像をすべて一瞬にしてなぎ倒し、この地に祝福を与えました。そしてアトスを休息の地とし、他のいかなる女性の立ち入りを禁じました。
 私が一番驚嘆したのは女人禁制の聖地を1000年以上保ち、今なお、20の修道院で1700人が修行をしているところです。しかもただの女人禁制というだけでなく、動物の雌も禁制で、隣の修道院までも山を越えて数時間という自然の中で厳しい戒律を守りながら修行をしています。
  

1705232_2

 緑に包まれた半島に点在する修道院。陸路からの道はなく、そして、女性である私はただ船の上から眺めることしかできない聖地。

 もし、男性に生まれ変わったのなら、修道院を訪れ、その生活を体験したいと思いました。(保坂)

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2017年5月19日 (金)

快適24時間、船の旅(小笠原)

小笠原丸
先日、「父島・母島2島充実滞在、小笠原の海・陸大自然 10日間」より戻りました。
東京都でありながら本土とは1000キロ離れた小笠原。「丸一日船に乗るの?」「船以外に他に行く方法はないの?」これまで聞かれたことは数知れず。航空路がない小笠原へは観光客はもちろん島に住む島民の足として、また物資輸送の手段として活躍するのがおがさわら丸なのです。独自の進化を遂げてきた貴重な動植物やボニンブルーの美しい海など山にも海にもその見所はつきない小笠原。そろそろ北の海に戻ってしまうザトウクジラも私たちの期待に応え潮吹きからブリーチ、水中集音マイクでクジラの歌まで聴けると言う特典?付きでした。魅力溢れる小笠原、しかしそこには行く為には、1000キロ・24時間船の旅!は必要不可欠なのです。
去年6月に2代目おがさわら丸よりバトンを受け継いだ3代目。2代目は何度か乗船しましたが新造船は初めてということもあり船の長さを憂鬱に思うよりワクワクする気持ちがあっさり勝利。間もなく就航1年が経過しますが船内はまだまだ新しく、何もかもがキラキラしていました。
展望ラウンジやお店も充実。船内散策を終え少し休憩、と寝室へ。ここに以前と比べ段違いの変化がありました。かつてのツアーで使っていたおがさわら丸の2等和室は雑魚寝部屋。マットに寝ころぶと頭のすぐ上、足元に、また右に左に寝返りをうっては知らぬ殿方のお顔や足が目の前に・・・。
さすがに「おぉっ」と一瞬なります。直立不動の寝姿で天井を仰ぐ。そこで添乗員の特技でもある“枕が変わってもどこでも寝られる”を有効活用したため夜はぐっすりでした。などと言っているものの実際私はあまり気にしておらず雑魚寝も今となっては良い思い出だなぁとしみじみ。3代目の2等寝室にもできた仕切りだけでゴロンとした時のホッと感に「あぁ、やはりこんなにも違うのだな」と感じました。一番重要なプライベート感、かなり充実です。少しは小笠原までの距離が縮まったのではないでしょうか?!(岩間)

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2017年5月18日 (木)

オランダのヴェネツィア!?ヒートホールンで運河クルーズ

Photo

先日、「ベネルクス物語15日間」の添乗より帰国致しました。今回の旅は、年に一度の花パレードを見学したり、期間限定開園のキューケンホフ公園やラーケン王立植物園を満喫したりと花三昧、さらに、美術館や旧市街歩きで文化歴史も味わえる、ベネルクスを網羅したツアー。その中でも特に印象に残った場所がヒートホールンです。

ヒートホールンという町で有名なのは、町の交通網となっている水路を利用した運河クルーズ。この小さな町では道幅が狭い為、車の乗り入れはできず、メインの移動手段は小舟。町の家々の間には細い水路が通ります。

船乗り場から運河クルーズが出発すると、水面に反射する木々や空の雲など幻想的でお客様からは感嘆の声が漏れます。古いもので築300年の茅葺の屋根の民家やよく手入れされた庭などを船から間近で見学。しばらく進むと、町の中心には古い教会。この村では教会で行われる結婚式の際、新郎新婦は小舟で教会まで向かいます。町の中心の水路を抜けるとそこにはボーレンヴィド湖が見えてきます。このあたり一帯は1400年代、燃料用ピートを掘り出す村。ピートとは石炭の前の段階で鉱石ではなく、泥の一種。植物質が炭化したもので燃料や肥料として使われました。そのピートを掘り出す際に多くの山羊の角が出土し、村の名前ヒートホールンの由来に(ヒート=Geit=山羊、ホールン=Hoorn=角)。泥炭湿原では乾季には牧畜や農業なども行われてきたそう。その後、かつて湿地帯だった場所が1600年代に湖となり、ボーレンヴィド湖と呼ばれています。オランダは泥炭湿原の上に砂がつもった大地。この村も昔から、泥炭と水の資源の恩恵を受けてきました。

ところで、この町は海沿いの町ではありません。海水と川水を分ける大堤防の内側、大堤防からは約100キロ南にあります。もちろん水質は淡水で、川魚がとれるそう。(長田)

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2017年5月17日 (水)

世界一美しい海岸道路「グレートオーシャンロード」(オーストラリア)

先日、「往復直行便利用!暮らすように旅する!美都メルボルンの休日6日間」のツアーより帰国致しました。コンパクトな日程ながらメルボルン郊外まで足を延ばす充実度の高い内容でした。
ビクトリア州の州都メルボルンは、シドニーに次ぐ国内第二の大都市で、英国エコノミスト誌が選ぶ「世界一住みやすい街」に選出、また旅行先としても人気の都市です。郊外には、大自然が広がり、海岸線に沿って約260kmに渡り続くグレートオーシャンロードは、誰もが一度は行きたい観光地のひとつです。
メルボルン中心から、バスで山間部を抜け、グレートオーシャンロード最大の見所「十二使徒の岩」までは約4時間。ビジターセンターから延びる遊歩道を奥に進むと、一際、風が強くなり、目の前に断崖絶壁に波が打つ寄せる様子がみえました。思わず、歓声が上がるほど素晴らしいダイナミックな自然が作り出した絶景です。

十二使徒の岩

1000~2000万年前までは本土の絶壁と陸続きでしたが、崖と波と風に削られ、40m以上の柱が残りました。12の岩々が並ぶ姿からキリストと十二人の使徒の弟子たちになぞらえて十二使徒と命名されましたが、年間約2㎝の速度で浸食が続き、今日では8つのみ残っています。見渡す限り広がる絶景に、地球の偉大さを感じたひと時でした。(大和田)ユーラシア旅行社で行くオーストラリアツアーの一覧はこちら

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2017年5月16日 (火)

ベルギーが誇る秘宝をハント!ゲントの祭壇画『神秘の子羊』にお目見え

ゲント・聖バーフ教会の『神秘の子羊』(レプリカ)

先日、「連泊で楽しむ、花のオランダ・ベルギー 10日間」の添乗から帰国致しました。
四月のオランダ・ベルギーはチューリップをはじめとする花が咲き乱れるベストシーズン。ちょうど見ごろを迎えた花々を各所で見ることができました。花とチョコレートのイメージが強い二国ですが、この国に行ったら外すことができないのが絵画をはじめとした芸術です。

中世、ネーデルランドと呼ばれたこの二か国は、12~17世紀と長きに渡って海運業で栄えた場所です。都市ごとに最盛期は異なるものの、一時この地を支配したフランス王妃も嫉妬するほどだったとか。こうした繁栄を背景に、プロテスタントのオランダでは豊かな商人に支えられて風俗画や風景画が、カトリックのベルギーでは宗教画が発展しました。

 中でもベルギーには“7大秘宝”と呼ばれる芸術作品があり、今回のツアーではそのうちの1つで、ゲントの聖バーフ教会に納められた『神秘の仔羊』の祭壇画を観てきました。

ファン・アイク兄弟が手掛けたこの作品は、父なる神、子なるキリストの下の枠には多くの聖人や王侯貴族が祭壇にあげられた羊を取り囲む…といった新約聖書の一場面を主題に描かれていますが、一目見てその細かさに驚きました。絵画の中に書き込まれた人物の多いこと。びっしりと描かれた何百もの聖人の書き分けを可能にしたのは、この時期にネーデルランドで開発された油絵の技法によるもの。それまではひび割れもしやすく厚塗りだったテンペラ画やフレスコ画から、厚塗りも細かい描写も自在になったために木々の葉や、流れる髪の1本1本、折り重なって立ち並ぶ人々がまとう衣服まで、目に見える情景そのままを写し取ったかのように描くことができるようになったのです。

 また、もう1つの驚きはその発色の鮮やかさ。オランダ・ベルギーの旅をしていると、厳しい風土の土地柄か、くすんだ色の風景画や暗い室内の背景の絵も多いため、見応えを感じる反面重厚な印象を持ちますが、この絵は特に下段の近くの空を青く、より遠くの空に白の色を載せる空色は吸い込まれるような透明感です。この写真は撮影可能なレプリカですが、実物の方がより透き通るような色彩で、軽やかな質感を実物そのままにお届けできないのが本当に残念でなりません。今後のカメラの性能向上に期待しつつも、この祭壇画自体が予想を超える大きさなので(しかも裏も表も絵が描かれています)、そのスケールとともに、皆様にはぜひ現地でこの感動を味わっていただきたいと思います。

1つの作品でこの感動。ならば、ぜひ残りの秘宝にもお目にかかりたいと思う今日この頃です。(松永華)

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2017年5月12日 (金)

ツアー再開!4年振りにアルジェリアへ

「世界遺産ムザブの谷とアルジェリア・ハイライト」ツアーから帰国しました。
しばらく自粛していたアルジェリアツアーですが、治安もようやく安定し、現地視察を経て4年振りにツアー再開。その第1弾となった今回、「待ちに待ったよ!」という21名のお客様と共に日本出発となりました。

橋と峡谷の街、コンスタンティーヌ

アルジェリアはアトラス山脈を境にして北側と南側で光景がガラリと異なります。
北側は、地中海と肥沃な緑の大地が広がり、古くはフェニキア人の植民市に始まる町がたくさん建設された歴史ある地域。
アルジェリアと聞くと「アラブ人のイスラム教の国」というイメージが先行しがちですが、例えば、第3の都市コンスタンティーヌには19世紀からのフレンチ・コロニアル建築が多く、モスクから聞こえてくるアザーンで「あ、ヨーロッパじゃなかったっけ。」と思うほど。深さ100mを超える峡谷に何本も橋が架かる光景が、より一層、自分たちの居場所を謎にさせます。
また、首都アルジェの海沿いには、青と白を基調としたコロニアル建築が建ち並ぶプロムナードがあります。そこだけを切り取れば「ここはね、ヨーロッパのどこか。」と言われても疑問は抱かないかもしれません。

山あいのローマ都市、ジェミラ遺跡

そうして現在も生きている都市がある一方、既に歴史となった遺跡もあちこちに残っています。多くはローマ人の手でローマ風に作られた町で、セティフ郊外のジェミラ遺跡はその代表格。山あいの立地はローマ都市としては珍しいのではないでしょうか。遺跡は“旧市街”“新市街”が明確に分かれていて、前者にはローマの神々の神殿が、後者にはキリスト教会が鎮座。時代の流れと宗教の変化を目の当りにします。また、市場には取引を公正公平にするための計量・測量器があって「ローマ人って真面目だなぁ」と感じたり、あちこちにある浴場を見るにつけ「やっぱりお風呂好きだったんだね~」と感じたり。北アフリカのこんなところにまでローマ人が来た痕跡に、改めてローマ帝国の凄さを思いました。

ムザブの谷のガルダイア

一方、アトラス山脈を南へ越えると国土の85%を占める砂漠地帯。
「イスラムの清教徒」といわれるムザブ族が暮らすムザブの谷へ行けば、イスラム教の主流派から迫害を受けて流れ着いた彼らが守り続ける独自のイスラム文化に出会います。町を歩く女性はとても控えめ。ハイクと呼ばれる白い布を纏って足早に歩いて行きます。驚くのは、片目だけを見せて他は顔も全て隠している女性。既婚女性なのですが、「周りが見えるのか?」「歩きづらくないのか?」とついつい野暮なことを考えてしまいます。男性が履いているズボンはどこかで見たような…と思ったら、少し前に日本でも流行ったサルエルパンツ。ファッションの流行は、思いもかけないところから生まれるものです。
町自体は同じような正方形の建物の集合からなり、模型のよう。パステルカラーの壁色も相まって、他にはない光景です。建築家ル・コルビュジェが、フランス・ロンシャンの礼拝堂設計へのインスピレーションを受けたという建物はこの地に残っている、そのことにも驚きです。

アラブ人のイスラム教国であるアルジェリアですが、訪れてみると様々な時代の様子が混在していることに気づきます。どっぷりイスラムの空気に浸かりたいと思って訪れると、かえって肩すかしを食らってしまうかもしれませんが、それほど色々な表情を持っている国です。そういったことも含め、事前に情報収集できるガイドブックがなくて残念かもしれませんが、一方、先入観なくアルジェリアを見たままに感じられるのはガイドブックがないからこその良さという気もします。多様な情報源から色々な情報を手軽に入手できる今、こういう旅は貴重なのかもしれません。
4年振りの訪問でしたが、変わっていたのは、コンスタンティーヌの街に新しい橋が1本増えただけでした。以前の記憶のままのアルジェリアを再訪できたことは、とても幸せでした。(江間)

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2017年5月11日 (木)

河西回廊に存在した謎の黒水国とは?

この度「遙かなる河西回廊への道 11日間」より帰国しました。

この河西回廊は、古くは秦また漢の時代に「万里の長城」の西端が造られ、西方の軍事拠点として、また仏教伝来の路として、さらには、唐時代にはシルクロードの主要地として栄えました。
また、河西回廊は数多くの人々が野望を持って行き来した道であります。仏教の経典を求めて玄奘三蔵が旅し、霍去病はじめ前漢の時代の武将たちが匈奴との戦いのため遠征した道なのです。

武帝によって設置された河西四都「武威、張掖、酒泉、敦煌」、シルクロードの起点・西安と、河西回廊からシルクロードをたっぷり観光しました。
そのうちの酒泉から、張掖までの間に黒水国城堡遺址という遺跡があります。

黒水国城堡遺址

今回のツアーの他の観光地との違いは入ってすぐ分かります。
駐車場もなければ、どこが入り口なのかも分からないのです。回りには民家のみ。
その民家の前にひっそりと遺跡の石碑が建っています。
チケットもなければ、この日は他の観光客もいなく貸し切り状態でした。

黒水国城堡遺址

一見見落としてしまいそうなこの黒水国城堡遺址は黒水国という国の遺跡です。
黒水国の時代は漢時代と言われていますが、詳しい史書がないため、今だ謎に包まれています。そのため今日まで、価値を知られる事も注目されなかったため、特別な保護や修復もされていません。

言い伝いによれば、この地域には匈奴の一部が移り住み、「小月氏国」を建国し、その都があった場所が黒水国だったと言われています。
その後、漢の武帝の征服により滅亡しますが、シルクロードの中継地点として栄えた記録があります。
そして最近では、この遺跡内から漢から晋かけての墓が数百個が発見され、中から銅鏡や陶磁品などが大量に出土しました。

もしかしたら何か見つかるかも!?と下を見ながら歩き進めました。

黒水国城堡遺址

この遺跡から建物らしきものは全く残っていません。あるのは城門のみです。
しかし何も残ってないからこそ、想像が膨らみ、ロマン溢れる地です。

次、訪れる際は黒水国についての謎が解明されているでしょうか?

(白井)

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2017年5月10日 (水)

貴州省、少数民族の村(中国)

黄崗トン族村

先日、貴州省の少数民族を訪れる9日間の添乗より帰国致しました。主にミャオ族、トン族の人々が暮らす村々を巡りました。

現地に到着してみると、近代的な高層ビルやマンションがいくつも立ち、高速道路も日本と変わらない質のものが出来ており貴州省の発展ぶりに驚きました。
このような近代化の波は、少数民族が暮らす村にも所々影響を与えていましたが、昔ながらの情緒溢れる村もいくつか残っていました。

それは貴州省の南東にある従江近郊の「黄崗トン族村」。大きい村ではありませんが、そこには昔ながらの木造住宅が残り、トン族の人々も未だに黒い民族衣装を着て生活しています。
村を散策してみると、トン族の村に必ずある特徴的な鼓楼と呼ばれる塔も残っていました。

ここは村での重要な決め事を決める時などに使われます。釘は一切使わずスギの木を組んで立てられ、その高さと数は村ごとに異なります。この村では約20mの高さで5つ立っていました。
観光地化していると写真代を取られたりしますが、村の人は写真を撮ってもお金を請求することもなく皆笑顔でポーズをとって応えてくれ、撮った写真を見せると喜んでくれました。

また、近代化してしまっている村では、子供達が出稼ぎに行ったり、遠くの学校へ進学します。そのため、子供達を見る機会というのはあまり多くありませんが、この村を訪れたときは子供達が鬼ごっこをしたり、母親の家事のお手伝いをしたりする姿も見ることが出来ました。

そして、次第に日が暮れ、村が夕日に染まる風景を見ていると何年か後にはなくなってしまうかもしれないこの原風景をいつまでも眺めていたいなと感じました。(山下)

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2017年5月 9日 (火)

異国情緒あふれるカシュガルの職人街へ!(中国・新彊ウイグル自治区)

職人街にて

先日、「西域シルクロード三大都市巡りとタクラマカン砂漠縦断 9日間」の添乗より帰国しました。

タクラマカン砂漠、クチャ、ホータン、カシュガル等の西域シルクロードの主要観光地を巡るハイライトコースです。

シルクロードの十字路、中国と中央アジアを結ぶ要衝として栄えた街カシュガルでは地元のウイグル族で賑わう職人街を訪れました。
道の両脇にはウイグル帽や民族楽器、ドライフルーツ、金属製品などの様々な店が立ち並びます。
それぞれの店先ではウイグル帽をミシンで縫っていたり、フライパンを金槌で叩いていたりと職人の手によって作られていく様子を垣間見ることができ、見ているだけで楽しい!
民族楽器のお店に入ってみると店内には桑の木などで造られた様々な種類の楽器がずらり。
店主が楽器をひとつ手に取り、ウイグル帽を被って演奏してみせてくれました。異国情緒溢れる素敵な音色に思わずうっとり。
お店を後にし、通りに戻ると紳士ジャケットを売るワゴン車が現れてウイグル族の男性が夢中になってジャケットを選んでいました。ウイグル帽を被った男性陣が熱心にスーツ選びをしている光景はなんとも不思議でした。

職人街を抜けるとエイティガール寺院の前の広場に出ます。
エイティガール寺院は1426年に創建された新疆ウイグル自治区最大のモスクです。
屋内外約合わせて8000人が一度に礼拝出来るモスクですが、イスラム教の祭日であるクルバン節やローズ節には新彊中から人が押し寄せ、その数は2~3万人にも及び、モスクへ入りきらない人が広場や通りを埋めつくそうです。
大変な混雑が予想されますが、1年で一番賑やかなその時期に敢えて行くのも面白そうです。(鈴木)

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