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2017年6月

2017年6月30日 (金)

海の底へと沈んでいった多くの命(沖縄)

本日は海外の話題ではなく、日本国内の大切な、でも少し暗いテーマを。

6月23日沖縄の慰霊の日、テレビや新聞で多くの人が犠牲者を悼んでいるを見ながら、私も人生で初めて、当日に沖縄に向けて静かに黙祷を捧げました。そうさせたのは、先日「沖縄地上戦の事実に触れる旅3日間」のツアーより戻ってきたからです。

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今から72年前の4月1日米軍が本島上陸した読谷村の見学からツアーは始まり、首里陥落から撤退、そして本島南部・組織的戦闘が終わった6月23日の摩文仁の丘までを巡る決戦の時間軸の添った濃い3日間でした。その中でも、那覇市内にある「対馬丸記念館」では、体験者の方の語りを聞くことができ、貴重な時間を過ごしました。

1944年7月にサイパン島で日本軍は全滅し、大本営は沖縄が戦場になる日が近いと読み、県民のお年寄りや女性そして子供を船で県外へ疎開させるように指示をしました。1944年8月22日その疎開船の1隻対馬丸には学童、一般合せて1661名の疎開者が乗船したにも関わらず、夜22時過ぎ、米軍の魚雷攻撃を受け、わずか10分足らずで沈没し、分かっているだけで1482名が犠牲になった(データは今も更新されています)惨劇、対馬丸事件。

今回の語り部の方は、一般疎開でお母様、お姉様と一緒に対馬丸に乗船し、たった4歳で生き残ったという男性でした。

「4歳ということもあり、鮮明には覚えていません。船が沈没する瞬間「飛び込めー」「早くしろー」という怒号が今も聞こえてくる気がします。そして海に投げ出された後、醤油樽につかまったお母さんと自分、お母さんは「お姉ちゃんを探してくる」と言って樽を離して泳いで行ってしまい、それきり見ていないんです。だから、小さい頃から「お母さん」と発した記憶がないんですよ。」

空腹の中、数日間海を彷徨い、奇跡的に漁船に救助されたご本人。それから九州を転々として沖縄に戻ったのは7年後だったとのこと。そして、事実を伝えてはいけないという「箝口令」が二重に生存者たちを苦しめました。本島に残った家族は音沙汰ない子供たちの安否を心配し、生き残りの人たちは自分の不安を誰にも伝えられない-。
対馬丸記念館のフロアには亡くなった方の写真展示があり、語り部の方のお母様やお姉様のお写真も紹介してもらいました。

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沖縄県民の4人に1人が亡くなったと言われる軍民一体で戦った本土決戦、戦没者は前述の対馬丸の犠牲者を含めて20万人以上。決して忘れてはならない、繰り返してはならない史実を勉強した3日間でした。

旧海軍司令部壕で読んだ大田実海軍司令官の有名な訣別電報
「沖縄県民カク戦エリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
(=沖縄県民はこのように戦いぬいた。県民に対し、今後、特別の配慮をお願いしたい)

戦後、本当にご高配が賜られているのか・・・米軍の訓練機が轟音をたてて飛ぶ沖縄の空を眺めながら考えました。(坂岸)

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2017年6月29日 (木)

「中世の雰囲気を味わうことができるタリンの旧市街祭り!(バルト三国)」

中世の衣装をまとった街人

先日、「バルト三国を極める旅 11日間」のツアーから帰国しました。
11日間でリトアニア、ラトビア、エストニアを周る、見所盛りだくさんのツアーです。この3つの国は、バルト三国とまとめて語られることが多いですが、言語、宗教、民族とそれぞれ国ごとに異なり、それぞれに違った魅力があります。
今回はエストニアの首都タリン旧市街で行われる、タリンの旧市街祭を体験できる日程です。ハンザ都市として繁栄した中世の雰囲気を肌で感じることのできる、タリンでも大きなイベントの一つです。
街中にはたくさんの露店が立ち並び、革製品や陶器、食品等様々なものを売っています。スタッフは皆、中世のコスチュームを身に着けています。また、各所で演奏やフォークダンスが行われており、華やかで可愛らしい衣装を着た人々が、軽快な音楽に合わせて素敵な踊りを披露してくれました。思わず、見ている私たちも参加して一緒に踊りたくなってきます。さほど広くないタリンの旧市街でも、至る所でついつい足が止まってしまうので、半日あっても足りないかもしれません。
ショッピングをしたり、ワークショップで何か記念になる小物づくりに参加してもいいかもしれません。可愛らしい町並みの片隅に座って、その場の雰囲気にひたるだけというのもよいでしょう。
決して派手で大規模なお祭りではありませんが、タリンのこじんまりとした、旧市街に合っているとても素敵なお祭りでした。(堤)

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2017年6月28日 (水)

エメラルドブルーの美しいプリトヴィツェ国立公園でクロアチアの自然を堪能!

先日、スロベニアとクロアチアの11日間のツアーより帰国しました。このツアーでは、まずスロベニアから入り、2つの鍾乳洞を巡ります。ポストイナ鍾乳洞は、トロッコが洞窟を駆け抜けるスリリングな体験がして頂けます。シュコツィヤン鍾乳洞はユネスコの世界遺産に登録されているヨーロッパ最大級の鍾乳洞です。その後クロアチアへ。イストラ半島もしっかり観光して、クロアチアの細長―い国土を南へと下っていきます。途中、ボスニア・ヘルチェゴビナを通り抜け、アドリア海の真珠と呼ばれるドブロブニクへと抜けていきます。今回は天気にも恵まれ、ツアーを通してアドリア海の美しいブルーを楽しむことができました。
中でも、思い出深い美しい自然が広がっていたのがプリトヴィツェ国立公園です。こちらも世界遺産に登録されています。今回のツアーでは、国立公園の敷地内のホテルに2連泊したので、1日かけてじっくりプリトヴィツェの自然を堪能できました。
まず午前中は下の湖群を目指します。園内を走るバスを降り、砂利道と木の遊歩道を進んでいきます。下まで降りると360度にエメラルドブルーの湖!

プリトヴィツェ国立公園の湖

辺りをひらひらと飛ぶ、胴体の青いハグロトンボが水のきれいさを証明しています。そして上を見上げると大きな滝!この公園内で最も大きな滝で落差は78メートルあります。皆様で水しぶきを浴びて、午後のハイキングに向けて英気を養います。午前中の道は、割と平坦な道が多く、皆様元気に歩き切りました。

そして昼食にチキンステーキを食べ、いよいよ午後のハイキングスタートです。午後は、上の湖群を登っていきます。歩けるか心配な方はご心配なく、自然を満喫しながらゆっくり進んでいきます。
上湖群は、下湖群よりも動きのある自然で、湖とたくさんの滝が次々と目の前に現れます。ここプリトヴィツェ国立公園には、全部で16の湖と92の滝があります。上湖群は下湖群よりも透明の透き通った湖が多くなり、また違った自然が楽しめます。
だんだんと進むにつれて登りがきつくなってきます。そんなときは深呼吸。マイナスイオンで疲れた身体を癒してまた歩きます。そしてとうとう一番上の湖に到着!ここに広がる湖は日本語に訳すとガマ湖と呼ばれています。その名の通り、ガマが一面に生い茂っています。そして今回は、ガマに隠れて子育てをする親ガモを見ることができました。
絵本のような景色に癒された後は、バス停にあるアイスクリームをぺろり。そして再びバスに乗り込み、ホテルへと戻りました。(松永美)

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2017年6月27日 (火)

初夏限定の風景探しinスペイン

 

トレド大聖堂


 先日、「華麗なるスペイン紀行 10日間」のツアーから帰国しました。首都マドリッドから南下し、アンダルシア地方を巡った後に飛行機でバルセロナへ。道中、様々な場所で初夏ならではの光景に出会いました。
 まずはスペインの京都ともいわれる古都トレド。6月15日に行われるキリストの聖体祭に向けて街全体で準備が行われていました(私たちが訪れたのは5月末)。聖体祭は復活後に地上にとどまっていたイエス・キリストが天国へ帰っていったとされる、毎年イースターより60日後に行われるお祭りです。お祭り当日には大聖堂の宝物室に保管されている金・銀・宝石類が散りばめられた重さ370kgの聖体顕示台を担ぎ、トレドの街中を2.5km練り歩きます。私たちがツアーで訪れた時には既に、そのルートに天蓋用の布が張られていました。
 次にコルドバ。ゼラニウムの花がきれいに咲く花の小道を通りました。通り自体に花の小道という名がついていますが、コルドバはこれからどんどん気温が上がり、一番暑い日には50度近くになることあります。そんな時にはさすがにお花も枯れてしまい、名前負けの通りに・・・。この通りの一番の見どころは、振り返るとメスキータのミナレットが正面に見えること。メスキータとはスペイン語でモスクという意味ですが、レコンキスタ完了後、イスラム教のモスクをそのままカトリックの大聖堂に改築したという面白い歴史があり、イスラム教とキリスト教が混在した世にも珍しい建物となりました。このミナレットも現在では大聖堂の鐘楼になり、白壁に赤やピンクのゼラニウムが咲く小道の雰囲気と相まってベストショットが撮れます。ちなみにお花の水やりはお役所の仕事なのだそう。

ひまわり畑


 そして最後に、バスでロンダからセビージャへと向かう途中に咲き誇っていたアンダルシア名物ひまわり畑。右も左も一面黄色で、青い空とのコントラストが映えます。コルドバもそうですが、アンダルシア地方で本格的な夏が到来すると基本的に40度越えも珍しくなく、お花も枯れてしまう程の暑さになります。オイル用として育てられるひまわりも例外ではなく、よって短い初夏の時期にしか見られないこの季節限定の光景となるのです。今回はドライバーさんに頼んで、道端でバスを止め、満開のひまわり畑を貸し切りで記念撮影。これからの季節、どんどん暑くなるアンダルシア地方もギリギリ快適に観光出来て良かったですねと談笑しながら、一路バルセロナへと飛行機に乗り込みました。(日裏)

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2017年6月23日 (金)

フランス人が「異郷の地」と呼ぶブルターニュ

この度、ユーラシア旅行社の「のどかなブルターニュの田舎巡りと印象派の故郷ノルマンディー 12日間」より帰国しました。
ブルターニュ地方はフランス北西部の突き出た半島の部分。パリや他のフランス主要都市からの交通は不便ですが、静かでゆっくりとした田舎町独特の雰囲気が感じられるのが魅力です。

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ブルターニュの人々の祖先は、自然や精霊を信仰するケルト人です。その後やってきたローマの文化を取り入れながらゆっくりと融合し、5世紀頃にはブリテン島(イギリス)からやって来たブリトン人によって再びケルト化されました。その後、ノルマン人による支配を退け、大国となっていくフランス・イギリスと戦いながら独立を守ってきました。1532年にフランスに併合されますが、長い間、独自の文化と伝統を守ってきたからこそケルト文明の影響が色濃く残り他の地域とは違う魅力が感じられます。

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ヨーロッパに行くと教会ばかり、とたまに耳にしますが、ブルターニュでは他とは一味も二味も違う教会を目にする事ができます。それが「聖堂囲い地」という複合教会施設です。その名の通り、壁に囲まれた聖堂です。聖堂の他に、納骨堂、墓地、キリスト磔刑像がセットになって、敷地の入口には立派な凱旋門が取り付けられているのが特徴です。
ケルト的な考えでは死の世界と生の世界はすぐ近くにあり、先祖の魂は家の庭先やその辺の石などにいて、いつも生きている人間と一緒にいるというものでした。キリスト教化が進む中、死の世界を一ヵ所にまとめ、生の世界から訪問できるような場所をつくったのがきっかけだといいます。
この聖堂囲い地は、大都市の中心から離れた村の庶民の為の小教区だったところにあり、ブルターニュの中でも最も独特な地域と言われるフィニステール県には特に沢山あります。その殆どは亜麻の貿易で経済的な繁栄を迎えた16、17世紀に建てられました。教会の力を見せるため、隣の教区と競って立派な聖堂を建てた時代だったそうです。
聖堂囲い地があるところは遠くからでも「カルヴェール」と呼ばれる磔刑像が施された背の高い柱が目に入るのですぐに分かります。バスを少し走らせれば「あ、ここにも」、「またここにも」と次から次へと見えてきます。時には、住んでる人がいるのかな?と思う程に過疎化した小さな集落にも不釣り合いなほどの立派な囲い地があるのです。
でもなぜか、時間ともに風化し黒ずんだ聖堂やカルヴェールの周辺には、牛や羊がのんびりと草を食む草原の景色が似合うのです。

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2017年6月22日 (木)

ブルチノフ村の王様の騎馬行進

先日「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー物語 15日間」より帰国致しました。

中世の歴史、文化、芸術の詰まったチェコ、ドナウ川に面するスロヴァキア・ブラチスラバ、大平原の広がるハンガリーの3ヶ国の魅力をたっぷり堪能して参りました。

今回のツアーでは、5月ならではのプラハの春音楽祭、一面に新緑の広がるモラヴィアの大草原など盛りだくさんの日程でした。

中でも、チェコの小さな村ブルチノフでは、年に一度「王様の騎馬行進」と言うお祭りが開催されます。200年以上の伝統を持つこのお祭りはユネスコ世界無形文化遺産にも登録されています。毎年5月の最終日曜日に行われるお祭りで、村から10歳くらいの男の子が一人選ばれてその年の王様となります。この王様の騎馬行進は、当時モラヴィアとの戦いに負けたボヘミア王が、敵に見つからないように国から逃げるために、女装をして町を去ったところから始まったと言われています。王様の選出には、お金もかかるので両親のサポートがなければ王様にはなれません。1月に選ばれて、このお祭りに向けて準備をします。


ブルチノフ村は人口3000人ほどの小さな村なのですが、村に到着すると、モラヴィアの民族衣装を着た地元の人々や観光客で大賑わい。年に一度のこのお祭りの日は、周辺の村からも多くの村人が集い、楽団の演奏や子供たちの遊戯など、とにかく地域が一体となって盛り上がる瞬間です。村ごとにデザインが異なり、どれも特徴的な彼らの民族衣装は、実は古くはその衣装を着て結婚相手を探していたのだそうです。同じ村の者同士での血縁婚をける為に、自分と異なる民族衣装の相手を選ぶ必要があったのです。

王様の騎馬行進

お祭りの雰囲気を味わいながら、王様の男の子の家へ。家の前にはテレビの取材や観光客でいっぱいです。徐々に衛兵の騎馬が家の前に列を作ります。衛兵は同じくこの村の18歳の男の子のグループで、毎年お祭りの最中に、当時17歳の男の子を集める馬車が走ります。これは立候補制で誰でも参加することができます。そしていよいよ王様の登場!王様は口に白いバラを咥え、二人の護衛を従えて馬に乗って静かに行進します。王様が身に纏う白いバラと白い衣装は純潔を表しており、ボヘミア王は花婿のもとへ向かう花嫁に扮して国外逃亡を謀ったのです。可愛らしい王様とイケメンの衛兵たちに見惚れて行列を追っているとあっという間に時間が過ぎていきました。

王様の騎馬行進はかつては各村で行われていた行事だったのですが、現在毎年行っているのはブルチノフ村のみとなってしまいました。小さな村の大きなお祭りに今後の発展に期待が膨らみます。(西澤)

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2017年6月21日 (水)

太古の森が息づく場所 大西洋の楽園カナリア諸島

先日、カナリア諸島9日間のツアーより帰国しました。スペイン領カナリア諸島はスペイン本土から南西約1100km、大西洋に浮かぶ7つの島々です。日本ではその名を聞くことはあまりありませんが、年中暖かいこの島々はヨーロッパの人々に大人気。まるで月面のような大地有り、美しい海、真っ白な街並みと、とても魅力的な島々です。海やダイナミックな火山帯の景色も素晴らしいですが、他にもたくさん魅力があります。カナリア諸島の中には4か所の世界遺産があり、ツアーではそのうちの3か所に訪れました。ご紹介したいのは、中でも固有の植物が育つゴメラ島のガラホナイ国立公園と、スペイン最高峰のあるテネリフェ島のテイデ国立公園です。
ゴメラ島はカナリア諸島の中でも2番目に小さい島です。隠岐諸島より少し大きいくらい。沿岸部は標高も低く乾燥し、ほとんど植物が育たないのですが、島の中心部に向かってバスを進めてゆくと、少しずつ標高があがり、湿度が増し、同じ島とは思えない程緑豊かに、風景が変化してゆきます。島全体がユネスコの生物圏保存地域に指定され、島の内約10%をガラホナイ国立公園が占めています。ゴメラ島の姫ガラと隣のテネリフェ島の王子ホナイの伝説に由来する、ちょっと不思議な響きのこの国立公園には、世界でも大変珍しい太古の原生林が残っています。カナリア諸島の中でも早い段階で火山活動を終え、氷河期の影響も受けなかった為、数百万年前の植生が残っているのです!バスで国立公園まで行くと、たくさんのハイキングルートが網目状に張り巡らされており、道路からすぐに森の中に入ってゆくことができます。
ガラホナイ国立公園
森の中はまるでもののけ姫の世界。お客様はまるで屋久島のようとおっしゃっていました。苔むした木々が生い茂り、花が咲き、とても静かで幻想的でした。沿岸部に比べると気温も低く、空気がとてもきれいで、皆様その自然の美しさに感動しておられました。固有の植物もみかけ、花をめでながらのゆったりとしたハイキングを楽しむことができました。大地を覆うのは照葉樹の森。主にみられるのは月桂樹です。伝説上のガラ姫とホナイ王子は敵国同士の禁断の恋の末、お互いの味方に矢で射られて死んでしまいます。二人はまるで十字架のように折り重なって倒れ、血を流し、そこからこの照葉樹の森が生まれた、というのがこのゴメラ島の伝説です。
さて、そのホナイ王子の出身地はテネリフェ島。スペインから約1100km離れており、西サハラまで約100kmという立地ですが、スペイン最高峰と名高いテイデ山が聳えています。ここも世界遺産です。テイデ国立公園では5月末~6月にかけて、とてもおもしろい光景が見られます。エキウムという植物のカナリア固有種が花開く時期なのです。
テイデ山とエキウムの花
高くそびえるその姿から、宝石の塔と呼ばれるこの植物がにょきにょきと、荒涼とした火山の麓に生えている光景はなんとも不思議。枯れると白骨化したかのように真っ白になって倒れます。背の高いものは3m近くまで育つのだそうです。エキウムの育つ麓からロープウェイで3555m地点までのぼり、テイデ山の眺望をお楽しみいただきました。
テネリフェ島の観光で忘れてはならないのが、竜血樹をみること。竜血樹”ドラゴ”と呼ばれる樹は正直カナリア諸島中あちこちに生えているのですが、このテネリフェ島でしか見られない、特別な竜血樹があります。
イコッド・デ・ロス・ビニョスという小さな町の中にある植物園の中に、その”特別な”竜血樹があります。
樹齢500年の竜血樹
柵で囲われ、そばまで行くことはできないのですが、イコッドの街に入ってくると、遠くからでも見える巨大な竜血樹があるのです。なんとその樹齢500年!ガイドさんに言わせると、この樹には年輪がない為実際の樹齢を図ることはできず、遥か800年前のある記述の中にこの大きな木の存在が記されていたことから本当は樹齢800年以上なのではないかとのことでした。実際に、下から見上げるその大きな樹は威厳にあふれており、スケールの大きさに感動してしまいました。この竜血樹に会いに、またテネリフェ島を訪れたいなと思いました。(留置)

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2017年6月20日 (火)

今年は10周年特別記念!プライベートバラ祭り

この度、「ルーマニア・ブルガリア物語 16日間」より帰国致しました。

今回のツアーのメインイベントはなんといってもブルガリアでユーラシア旅行社のお客様だけに特別に開催される“プライベートバラ祭り”です。

ブルガリアと聞くとヨーグルトを想像されることが多いですが、実はブルガリアは世界有数のバラ生産地として知られています。

バルカン山脈とスレドナ・ゴラ山脈に挟まれた一帯は綺麗な水に恵まれ、温暖な気候が香油用のバラに適していることから「バラの谷」と呼ばれています。

かの有名なイヴサンローランはじめ世界の香水の7~8割に、このバラの谷で咲いたバラの精油が使われています。私たちが訪れた5月下旬はバラが咲き誇り、バラの花びらの収穫が始まるシーズンです。

バラの谷では、カザンラクのバラ祭りが有名ですが、ユーラシア旅行社ではバラ祭りが始まった当初と同じようにバラの谷の村々で、素朴でのんびりとしたお祝いの祭りをお楽しみ頂くプライベートバラ祭りを毎年行っています。

今年は開催10周年目にあたる特別な年です。
私たちはカザンラク郊外のレジーナ村を訪れました。村に近づき車窓を見ると、村人たちが笑顔で手を振ってくれています。なんと歌を歌いながら、私達の出迎えをしてくれていました。


ブルガリア

この地方で採れるバラは小さなピンク色の可愛いダマスクスローズという種類です。ローズオイルやローズウォーターに使われています。大変香りの良いバラで、畑についた瞬間からバラの甘い香りが私たちを包み込むように広がっていました。

歓迎の歌を歌ってもらった後、バラ摘みにご案内します。

村人が1人1人に丁寧にバラの摘み方を教えてくださいました。
一見難しいように感じますが、花のすぐ下を折ると簡単に摘むことができます。

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あっという間に皆様のカゴはバラでいっぱいに。

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30分ほどバラを摘んで頂きましたら、昔ながらの天秤で計量大会。今回は1キロ摘んだ方が優勝です。
全員に手作りのバラの証明書が配られました。

その後は公民館に移動し、ご昼食兼村人との交流の時間。公民館に入る前に、パンとバラのジャムを頂きました。これはパンを自分の人生に例え、甘い人生になるようにハチミツをつけて食べるというブルガリア伝統の出迎え方法です。

中に入ると子どもから大人まで30人近い村人が私たちのために集まってくれていました。
子どもたちはブルガリア伝統の歌や踊りを披露してくれました。
また日本語とブルガリア語の講座が開催され、普段なかなか機会のない現地の人々との交流をお楽しみ頂きました。習ったブルガリア語を使って、ブルガリアの歌「若さ溢れる青年よ」と「美しい森」を村人と一緒に歌いました。

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楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。

お別れの時には10周年特別記念にバラのリキュールとハーブのお塩のプレゼントを頂きました。

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(手作りの証明書、ハーブのお塩、10周年特別記念バラのリキュール、摘んだバラの一部)

摘んだバラと頂いたお土産のおかげでいつでもブルガリアでのひと時を思い出すことが出来そうです。
村の人々と過ごした時間は束の間でしたが、非常に貴重な時間で、村を出発するときは名残惜しくずっと手を振っていました。
また訪れたいと思いながら、バラの香りで包まれたバスに乗り込みレジーナ村を後にしました。(白井)

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ユーラシア旅行社で行くルーマニア・ブルガリアツアーの魅力はこちら

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2017年6月16日 (金)

~約2万年前のロマンを求めて~ ラスコーⅣ公開!

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先日、「南西フランス、絵のような風景へ 13日間」より帰国致しました。
今回は、天候にも恵まれ、汗ばむほどの陽気でしたが、このコースの題名の通り、訪れる街や村、そして車窓からの風景までもがどこも「絵のような風景」と言える、どこかの美術館にかかっているような絵画の一幅ように美しい景色ばかりでした。

その美しい村々に負けず劣らず美しい壁画が広がっている場所こそ、ヴェゼール渓谷のモンティニャック村近郊にあるラスコー洞窟。
今から約60年前の1940年9月8日、愛犬を探しに森に迷い込んだ4人の少年が偶然に発見した洞窟には、約2万年前にクロマニョン人によって描かれた美しく躍動感あふれる動物たちの彩色画が完璧な状態で残っていました。
フランスやスペインを中心にクロマニョン人の壁画は300ほど残っていますが、ラスコー洞窟の壁画は質と保存の良さ共に別格と言われるほど。

赤土・木の炭を獣脂・血・樹液で溶かして混ぜて作った黒・赤・黄・茶・褐色の顔料から数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・カモシカ・幾何学模様の彩画、刻線画などの約500点は、
宗教的な儀式?狩りの仕方を子孫に伝えるため?など、描かれた理由に関しては様々な憶測がありますが、なぜ、数多くの動物の絵を描いたのかは解明されていません。

ラスコー洞窟は1948年から63年までは一般公開されていましたが、この美しい壁画を見ようと、大勢の観光客が訪れたことで、白カビや黒かびが発生し、壁画に損傷を与えてしまいました。
その為、オリジナルの洞窟は閉鎖。その代わりに81年からは200m離れた場所に「ラスコーⅡ」と呼ばれる複製洞窟が再現され、観光客はその再現洞窟を見学していました。

しかし、200mも離れていても、大勢訪れる観光客や大型バスの振動によってオリジナルのラスコー洞窟を傷つけてしまう恐れが出た為、約1キロ離れた場所に造られたのが今回訪れた「ラスコーIV」です。5年ほど建設工事を行っていましたが、16年12月にラスコーⅡが閉鎖し、ラスコーⅣが新規オープンしました!
ラスコーⅡも技術の粋を集めて復元し、複製であっても見応えがある程でしたが、再現度はオリジナルの70%ほど。

今回、訪れたラスコーⅣは洞窟の大きさ、壁画に描かれた動物の大きさや色などオリジナルの洞窟を完璧に再現。
私たちが訪れる2日前、最初に洞窟を発見した4人の友人でありオリジナルのラスコー洞窟を訪れたこともある方がラスコーⅣを訪れ、「オリジナルそのものだ」と太鼓判を押したそうです。
約2万年前に描かれたクロマニョン人の技術と長年発見されなかったロマンに思いを馳せながら、よりリアルな壁画に圧倒されてしまいました。

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※洞窟内部は写真撮影禁止のため、写真はアトリエと呼ばれる場所に洞窟内部の壁画のレプリカが展示してあります。

さて、ラスコーⅡ、ラスコーⅣと建設されたけれど、ラスコーⅢは?と思うかもしれませんが、ラスコーⅢは世界各地でラスコーの素晴らしさを語る移動型洞窟で、世界中を回っています。
そして、7月からは福岡で展示されます(2017年7月11日~9月3日には九州国立博物館で開催)。
オリジナルのラスコー洞窟のほんの一部ではありますが、お近くにお住まいの方は是非訪れてみてください。(三浦)

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>>>ヨーロッパの異郷、バスク~魅惑の独特の文化と旅する喜び~

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2017年6月15日 (木)

140段の見事な大階段が待っている!陶器の街、カルタジローネ

シチリア島、南東部に位置する、陶器の街として有名なカルタジローネ。2002年にバロック様式の街の一つとして、世界遺産に登録されています。バロックの街並みに目を引かれつつ、可愛らしい陶器のお店をのぞいたりしながら、歩いていると、いつの間にか時間がたっていることに気づきます。先史時代から、この辺りでは、陶器作りが行われていて、現在でも受け継がれています。アラブ人から伝わる、マジョルカ焼きの技術もこの街から、イタリアに伝わっていったそう。今でもマジョルカ焼きの工房が軒を連ねます。細かい部分も丁寧に制作された、色鮮やかでシチリアらしい陶器がたくさんあり、お気に入りの1品に出会えるはず。

カルタジローネ、シチリアツアー、イタリア旅行、海外旅行

いつ訪れても、魅力的な街には変わりありませんが、今回のように、花階段のイベントの季節に訪れると、街一番の目玉である大階段が華やかに装飾され、一際目立ちます!
この大階段はスカーラと呼ばれ、140段程ある階段は、それぞれの段の側面に、いろいろな模様や絵が描かれた陶器のタイルがはめ込まれています。階段の一部はエトナ山の溶岩でできています。また、花階段の時期には、多くの植木鉢が階段に置かれ、主に大きな花が描かれます。年によってその絵は様々ですが、下から少し離れてみると、よくその形がわかります。140段程の少し段差も大きい階段ですが、ゆっくりゆっくりその一つ一つの絵を見ながら、後ろを振り返り、美しいカルタジローネの街の写真を撮りながら進めば、この階段もどうってことありません。一番上まで上がると、素晴らしい景色が待っているので、登る価値あり。今回は、ちょうど登り切ったところにあるサンタ・マリア・デル・モンテ教会でミサが行われており、中を少し見学。帰りも、階段沿いにお店をかまえる陶器屋さんを見ながら、少しずつ降りれば、問題なしです。
パレルモやタオルミナのように、見所がたくさんある街というわけではないですが、居心地がよく、立ち寄ってよかったと思わせてくれる街です。

カルタジローネ、シチリアツアー、イタリア旅行、海外旅行

同じ時期に行われる、ノートの街の花絨毯イベント(インフィオラータ)も開催されています。この時期のシチリアは、本当に花好きにはたまらないですね・・・(荒川)

ユーラシア旅行社で行く、シチリアツアーの魅力

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2017年6月14日 (水)

大航海の始まりと終わり、ベレンの塔(ポルトガル)

  先日、「ポルトガル・ハイライト 9日間」より帰国しました。
  今回は、首都リスボンや港町ポルトはもちろん、最もポルトガルらしい村に選ばれたモンサントや王妃の愛した街オビドスなど9日間という短い日程でポルトガルのハイライトを周遊します。
 中でも印象に残っているのが、リスボン近郊の港に建つ、ベレンの塔です。

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  テージョ川に面するベレン地区はポルトガルの主要な港でした。ベレンの塔の正式名称は「サン・ヴィセンテの砦」と言い、1515年にマヌエル1世の命により行き交う船を監視し、河口を守る要塞として建てられました。遠目から見ると、中世の城のような外観をしていて、かの司馬遼太郎はこの塔を「テージョ川の貴婦人」と表現しました。
 まだ船しか海を越える手段がなかった時代、何年もかけて冒険しやっとたどり着いた故郷。見送ってくれた時と変わらずに建っているこの塔を見たとき、船乗りたちは安心し、帰ってきた喜びに浸ったといいます。また、出迎える人々もこの塔の鐘が鳴り、船が近づいてきたという合図が鳴ると、港に集まり、歓迎の宴の準備が始まったそうです。塔のバルコニーには王族が立って帰国した船乗りたちを歓迎しました。その後、中にある謁見の間で、遠い東洋やブラジルの話を聞いていたといいます。
 ベレンの塔を見ると、いつも帰ってきた船乗りたちの喜ぶ姿、出迎える人たちの歓迎する姿が浮かんできます。(保坂)

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2017年6月13日 (火)

約250年守り抜いた信仰心の継承(長崎・五島列島)

5/18発「五島列島巡礼の旅4日間」の添乗に行って参りました。

ホテルマルゲリータから五島灘の風景

私にとっては日本における1549年からのキリスト教の布教や豊臣秀吉による伴天連追放令から禁教、弾圧、踏絵などを、日本史の授業で習ったけれど、深く掘り下げず済ませてきてしまった歴史の一部分でした。教科書にしてみたらわずか1ページほどの出来事でまとめられていることが、その歴史に踏み込んでいくとなんと痛ましく、悲しくも想像を超える驚異的な出来事だったことに衝撃を受けました。「1614年の全国への禁教令の発布から1865年の大浦天主堂にての潜伏キリシタン発見までの約250年。弾圧から逃れ信仰を守り抜いた。」と一文で終わらせてしまえばそれまでですが、現地を訪問し、3世代近くもの間、国からも世間からも非難と差別、命の危険にさらされながら、自分の信じるものを守り通したことや世代から世代に話しつがれた欧州の司祭、宣教師や想像だけのものであった教会を長崎で目にした五島からの潜伏キリシタンの人たちの心境はいかばかりだったかを想像すると胸を締め付けられました。禁教が解かれてからも貧しい信徒の方々が漁をしてのわずかな稼ぎと自分達が建設の労働に従事することで教会を建てられたという話などを聞きながらあちこちの教会を巡っていく内に、人々の念願の想いが凝縮して出来た教会ひとつひとつが素朴ながらも尊いものに見えました。いまこの五島を新しい世代の人が新しい形で観光アピールをしています。そうした活動の中でも過去の歴史を大切に大切に思う心が積極的な言葉ではなく、現地の人の優しい謙虚なオーラから感じられました。

久賀島の木造・旧五輪教会

本場ヨーロッパのような巨大な教会はひとつも五島にはありません。素朴な造りの教会、素朴ながらも本場に負けない交差ヴォールド天井や柱頭飾りがついた列柱の内装、日本建築を取り入れた教会などなど。小さな島国日本・・・ではなくここ五島だからこその教会。ヨーロッパのような巨大さによって圧倒もさせず、豪華絢爛ではないけれども、守り通した信仰と強い精神、謙虚でいて美しい五島の信徒の方々を象徴した教会は、ほっこりして温かみを感じさせられました。失礼かもですが、そう思ったのも教会が平屋でいて日本家屋的な造りから、自分が生まれ育った昭和初期の木造家屋に重なって、自分の家にも近いようなものを感じさせられたのもあるかもしれません。
また私事になりますが、不思議なことに、この添乗から帰国しましたら、4月から重だるかった5月病のような体の不調と気分の沈みがカラリと治りました。島の雰囲気や空気の良さ、優しい現地の方たち、素晴らしい景観、教会群、美味しい料理の要因も考えつつ、ちょっとなにかしらの病を癒す奇跡を頂けたかなと感じずにはいられませんでした。(高橋)

野崎島・旧野首教会

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2017年6月 9日 (金)

地震に負けない町、シチリアでも発見

先日ユーラシア旅行社の「シチリア島を極める」より帰国致しました。シチリア島はイタリア半島のつま先の先に浮かぶ三角形の島です。かつてはギリシアとカルタゴとローマ帝国が三つ巴で覇権を争った、まさに「文明の十字路」と呼ぶにふさわしい場所です。そんなシチリアの旅で特に印象的だったのがバロックの街・ラグーサです。
 2つの丘の上に広がるラグーサの街。低い方の丘の横にバスをつけ、散策をはじめました。低い方の丘はラグーサ・イブラといいます。曲線を多用した華美で大胆なデザインの建物、ユニークな怪物や動物などの持ち送り彫刻など、バロック様式で統一された町並みは見事なものでした。中心には、舞踏会の宮殿にありそうな大階段の上に聳え立つ大聖堂。町並みをより華やかに惹きたてていました。…それなのに、大通りをはずれると細い路地が入り組み、どこか中世を感じさせるような気がするのは何故でしょうか。町のはずれにはラグーサの守護聖人、聖ゲオルグの彫刻だけが残る廃墟の教会がひっそりと佇んでいますが、それは何故なのでしょうか。実は、ラグーサ周辺のノート渓谷一帯では、1693年に大地震が起こりました。マグニチュードは7.4。約6万人もの命を奪い、周辺の街は廃墟と化しました。ラグーサはその時に被災した街の一つで、一度崩れてしまった中世の町並みを土台に造られたバロックの街だったのです。廃墟の教会はかつて大聖堂だったものでした。地震の後大々的に復興作業が行われ、ノート渓谷一帯は見事にバロックの街として生まれ変わりました。現在、復興の経緯とともに、統一されたバロックの町並みが世界遺産に登録されています。再建には100年かかったと言われています。そのような背景からもう一度ラグーサの街を見渡してみると、震災に負けない人間のたくましさを感じ、地震の多い祖国と重ね合わせ、なんとも感慨深い気持ちになりました。
2つの丘は長い階段でつながっています。上の丘の名前はラグーサ・スーペリオーレ。地震の後、新興貴族や商人によって造られた新しい街です。20分ほどかけて階段を上り、スーペリオーレのサンタ・マリア・デッレ・スカーレ教会へ。ここからはラグーサ・イブラの街並みが一望にできました。柔らかな茶色に統一された街並みは美しく、被災した後は見る影もありません。天気にも恵まれ、その美しさは階段をのぼった疲れも忘れてしまうほど。

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帰りにまた階段を下りるとき、元気なお客様の後ろでちょっぴり膝が笑っていたのはここだけのお話し。(佐藤)

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2017年6月 8日 (木)

ドッキドキの橋渡り(徳島・祖谷)

先日、「阿波の絶景、大歩危・小歩危 祖谷とこんぴら参り 3日間」より戻りました。
徳島・鳴門では世界最大のうずしおを“渦の道”渦上45メートルの海の上、下を覗きながら歩いたり、奇岩の間、大歩危峡を川の流れにのって遊覧船。香川の琴平では讃岐の金刀比羅宮、こんぴらさんを参拝。うどんのいい匂いを嗅ぎ、讃岐平野の景色を眺めながらの思い出の785段。本当に実りの多い3日間でした。

その中で最も印象深かったのが奥祖谷の二重かずら橋でした。
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昔、平家一族が馬場での訓練に通う為に架設した橋は追ってから逃れる平家の落人が楽に切り落とせるようにシラクチカズラで編んで作られたそうな。観光地としても有名な祖谷のかずら橋。ここより更に奥へ奥へとバスを走らせること約1時間。先ほどまでいた他の観光客の方はどこへ行ったのだろうか?静まり返った森の中からは鳥の鳴き声と川の音だけが聞こえてくる。奥祖谷にも残るかずら橋は一方通行で渡るかずら橋と違い男橋、女橋の二重かずらだけでなく、野猿と呼ばれるロープを自分の手で引っ張り対岸へ移動する人力ロープーウェイなるものもあるのです。下はすけすけ。橋の間隔では大人は絶対に落ちることはないからと言われても足がびくびく腰はひける。皆でキャーキャー言いながら
2本の橋を渡り最後は野猿も挑戦!と、空気が澄みきった自然の中で童心に戻って楽しむことができました。

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奥祖谷が印象に残った理由の一つに二重かずら橋近郊にある“かかしの里”の影響も大きかったと思います。最近テレビでも放送されていたかかしの里。もともとは畑にくる野生動物を追い払う為に作り始めたそうだが今では住人?畑仕事をするかかし、バス停で待つかかし、結婚式をあげているかかし・・・。今にも動き出しそうな、お喋りする声が聞こえてきそうな、メルヘンな空間。愛情いっぱい注がれた、かかし里はそんな場所でした。(岩間)
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2017年6月 7日 (水)

“アドリア海の真珠”ドブロヴニク(クロアチア)

ドブロヴニク

先日、スロベニアとクロアチアの11日間のツアーより帰国致しました。
今回のツアーではアドリア海沿岸の2ヶ国を北から南へと縦断するツアーでしが、ベストシーズンの5月だったので現地ではほとんど快晴恵まれました。おかげでアドリア海沿岸ドライブの際も海がとても青くはっきり見られました。

今回の日程で一番印象深いのは、クロアチアの南に位置する城壁に囲まれたドブロヴニクでした。
観光当日、朝起きてホテルのカーテンを開けると快晴!ホテルの部屋からは、美しいアドリア海が見渡せました。胸を膨らませていざ観光スタート。

まずは、ドブロヴニクの旧市街が一望できるスルジ山の展望台へ。
クロアチア内戦の際、被害を受け2010年に完成したスイス社製のロープウエイに乗り、展望台に到着。すると、まさに期待通りと言って良い、オレンジ色の屋根で統一されたドブロヴニクの旧市街と青く光るアドリア海の絶景が広がっていました。

しばらく堪能してから旧市街へ。
この場所がクロアチアの内戦の舞台だったことなど感じさせない程、街の中は修復されていました。
午前中は旧市街の観光地を巡り、お昼のレストランで一休みし、午後は城壁を一周。

城壁は一周約2kmで40分から1時間程あれば回り切れます。
城壁に上ってみると、角度によって見える景色が異なってくるため写真を撮る手が止りません。また、城壁の上はたくさん階段がありますが、美しい景色のおかげもあり全く苦になりませんでした。

城壁の観光を終え、自由時間で散策し夕食を食べ、旧市街の夜景を見てとたっぷりと満喫し旧市街を後にしました。(山下)

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2017年6月 6日 (火)

貴重な巡礼宿体験と知られざる絶景(カザフスタン)

  先日「トゥズバイル塩湖とウスチュルト台地、カザフスタン・マンギスタウ絶景紀行8日間」のツアーから帰国しました。 マンギスタウ州は、カザフスタンの西の端。この地域は、「カスピ海」と「アラル海」
の間に位置し、古くは「地中海」と同じ「テチス海」であった場所。
 その海底が隆起、その後浸食され、まだ知られていない絶景が広がっているのです。 そこへ行くには道もなくホテルもないため、4WDに分乗しコックさんも同行。テントに2泊、巡礼宿に1泊が続く冒険要素の強い旅となりました。

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 「ベケット・アタ」という聖廟の巡礼宿では、地元の人たちと一緒に一晩を過ごしました。夕食時、係員に教えられながら6人ずつ丸く車座になると、宿から提供される大きな鍋が中央に置かれます。聖地である為、写真を撮ることはできません。 鍋の中の料理は、平らで大きなうどんのような麺に大きな羊の肉が載せられたもの。
 これはビシュケルマック(5本指)と言われ、文字どうり地元の人は器用に手で食べていました。夕食後、男女別の大部屋に別れ雑魚寝。日本人が珍しいのか好奇心旺盛な地元の人から質問などをされお菓子を頂くなど、ふれあいを楽しむ事ができました。

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 翌朝、快晴になり、絶景が広がる「ボスジラ」へ向かいます。
 ボスジラとは、地元の言葉で所有者のいない渓谷という意味。車を走らせていくと360度地平線の台地にグランドキャニオンのような大渓谷が広がりました。この地域特有のチョークとよば れる白い石灰の地層、そして、遠くには塩湖も見えます。船のような不思議な形や、皿を逆さまに置いたような奇岩が連なり、異次元の世界に迷い込んでしまったかのような風景でした。

 荒れた台地の轍のみの道を行くため、何度か車が泥にはまり動けなくなったりもしましたが、ドライバーのチームワークで見事脱出。彼らと別れるときは、とても名残リ惜しい気持ちになりました。(加藤)

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2017年6月 2日 (金)

ウイグル族の民家でラグ麺づくりを体験!(中国・新疆ウイグル自治区)

ウイグル民家でラグ麺作り
先日「西域シルクロード三大都市巡りとタクラマカン砂漠縦断 9日間」の添乗より帰国致しました。
死の砂漠と言われるタクラマカン砂漠の縦断や、パミール高原のカラクリ湖観光など、ハイライトが多数ありますが、その中でも1番印象に残ったのは、西域名物のラグ麺作りです。
ラグ麺とは、ツルツルしたうどんのような中細の白い麺の上に、肉と野菜がたっぷりのアツアツの煮込みトマトスープがかかっています。新疆ウイグル自治区をはじめ、ウズベキスタンやキルギスなどの中央アジアの国々でも食べることができます。
今回訪れたクチャのウイグル族の民家は、お婆さん、お母さん、子どもと3世代の家族で、ウイグル族の暮らしぶりを垣間見ることもできました。
まずは庭の散策から。とても広い庭には、たくさんの木や畑、また羊や鶏、牛までも飼っていることに驚きました。
庭に面したキッチンには、ガスコンロの他、ナンを焼くためのカマドもありました。
その後、家の中にお邪魔し、自家製のドライフルーツやナン、お茶を頂きました。
カマドで焼いた自家製のナンは、水分がなく、とても堅い・・・。(乾燥した地域なので、時間が経っても日持ちがするそうです。)現地の方はこれをお茶に浸して食べます。できたてのナンもあり、こちらは柔らかく、おいしかったです。
そして、ラグ麺づくりの準備ができたら、いよいよ体験!
まずはベテラン主婦のお婆さんがお手本を見せてくれました。ラグ麺はとても長く太い1本の麺でできています。
その麺を指で細く延ばしていきます。延ばし終わったら、8の字形に手首に巻き付けていき、板にたたきつけながらさらに細く延ばします。
延ばし終わった麺は、お鍋に入れてゆでます。
ここまでが麺作り。早速、ご希望のお客様は一人ずつ体験開始です!
手際よく簡単そうにも見えますが、見よう見まねでやってみると、手首に巻き付けるところから難しい。そして上手く板にたたきつけられません。
ウイグル族の女性は誰でもできるそう。さすがです。
体験が終わったら、ゆでた麺をお皿に盛り、トマトソースをかけ、自分で混ぜて頂きます。
これが、日本人の口にも合い、とてもおいしい!
ツアー中、何度かラグ麺を頂きましたが、この民家で頂いたラグ麺が一番おいしかったです。(椎野)

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2017年6月 1日 (木)

南太平洋のラバウル温泉にて(パプアニューギニア)

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先日「さらばラバウル・ガダルカナル 8日間」のツアーから帰国しました。ラバウルはパプアニューギニア、ガダルカナルはソロモン諸島という国にあります。

ラバウルというと、ラバウル航空隊やラバウル小唄は知っているけど、どこにあるかは分からないという方が多いのではないでしょうか。太平洋戦争時には日本の南方作戦の司令部も置かれた重要な拠点でした。その為、今もたくさんの戦跡が残っています。

 

ラバウルは日本軍の陸海軍の航空部隊が駐屯していたこともあり、飛行場が作られ、経験豊富な精鋭搭乗員で構成された、ラバウル航空隊が有名です。そのうちの一つの主要な飛行場の旧ラバウル飛行場は戦後もラバウル飛行場として使われていましたが、火山の噴火で灰に埋もれ使われなくなりました。今となっては、火山灰に埋もれ雑草が生え空き地のようになっていますが、優秀な零戦乗りがここから出発しました。ラバウルを飛び立った搭乗員が帰還の際に目印にした花吹山が目の前にあり、その麓には海水と火山から沸く温泉。もちろん、水着があれば入ることも出来ます。源泉は90度近いので、海水と混ざったいい湯加減で入れるところを探し観光の疲れを癒しました。火山を目の前にした温泉はどの温泉よりも良かったとお客様からも好評でした。戦争当時の搭乗員達もこの温泉でつかの間の時間を過ごしたのだろうかなどと思いにふけ、平和の大切さをしみじみ感じました。

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また、ラバウルには日本軍の占領地だったからこそ、日本軍の戦跡が多いのが特徴です。ジャングルに少し入ると戦闘機の残骸や、日本軍が作った洞窟などがあり、町自体が博物館のようですが、戦争博物館もあります。ゼロ戦や戦車の残骸、飛行場を作る際のローラーや機関銃がニューブリテン島全体から集められ、展示されています。かなり充実した展示物ばかりですが、野外展示の為雨風をしのげず、ほとんどが劣化してしまっています。当時の様子を知る唯一の手がかりでもあるので屋根ぐらい付けて保存できないのか、いつかは本当に時代と共に忘れられた歴史になるのではないか・・・幸運にも平和な時代に生まれたので、戦争は歴史の一部としてしか考えていませんでしたが、75年前の大戦が現実だったのだと戦跡を通して目の当たりにし、あの時代の惨劇をこれから何十年先も伝え続けなければならないとお客様と共に誓いました。(杉林)

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