海の底へと沈んでいった多くの命(沖縄)
本日は海外の話題ではなく、日本国内の大切な、でも少し暗いテーマを。
6月23日沖縄の慰霊の日、テレビや新聞で多くの人が犠牲者を悼んでいるを見ながら、私も人生で初めて、当日に沖縄に向けて静かに黙祷を捧げました。そうさせたのは、先日「沖縄地上戦の事実に触れる旅3日間」のツアーより戻ってきたからです。
今から72年前の4月1日米軍が本島上陸した読谷村の見学からツアーは始まり、首里陥落から撤退、そして本島南部・組織的戦闘が終わった6月23日の摩文仁の丘までを巡る決戦の時間軸の添った濃い3日間でした。その中でも、那覇市内にある「対馬丸記念館」では、体験者の方の語りを聞くことができ、貴重な時間を過ごしました。
1944年7月にサイパン島で日本軍は全滅し、大本営は沖縄が戦場になる日が近いと読み、県民のお年寄りや女性そして子供を船で県外へ疎開させるように指示をしました。1944年8月22日その疎開船の1隻対馬丸には学童、一般合せて1661名の疎開者が乗船したにも関わらず、夜22時過ぎ、米軍の魚雷攻撃を受け、わずか10分足らずで沈没し、分かっているだけで1482名が犠牲になった(データは今も更新されています)惨劇、対馬丸事件。
今回の語り部の方は、一般疎開でお母様、お姉様と一緒に対馬丸に乗船し、たった4歳で生き残ったという男性でした。
「4歳ということもあり、鮮明には覚えていません。船が沈没する瞬間「飛び込めー」「早くしろー」という怒号が今も聞こえてくる気がします。そして海に投げ出された後、醤油樽につかまったお母さんと自分、お母さんは「お姉ちゃんを探してくる」と言って樽を離して泳いで行ってしまい、それきり見ていないんです。だから、小さい頃から「お母さん」と発した記憶がないんですよ。」
空腹の中、数日間海を彷徨い、奇跡的に漁船に救助されたご本人。それから九州を転々として沖縄に戻ったのは7年後だったとのこと。そして、事実を伝えてはいけないという「箝口令」が二重に生存者たちを苦しめました。本島に残った家族は音沙汰ない子供たちの安否を心配し、生き残りの人たちは自分の不安を誰にも伝えられない-。
対馬丸記念館のフロアには亡くなった方の写真展示があり、語り部の方のお母様やお姉様のお写真も紹介してもらいました。
沖縄県民の4人に1人が亡くなったと言われる軍民一体で戦った本土決戦、戦没者は前述の対馬丸の犠牲者を含めて20万人以上。決して忘れてはならない、繰り返してはならない史実を勉強した3日間でした。
旧海軍司令部壕で読んだ大田実海軍司令官の有名な訣別電報
「沖縄県民カク戦エリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
(=沖縄県民はこのように戦いぬいた。県民に対し、今後、特別の配慮をお願いしたい)
戦後、本当にご高配が賜られているのか・・・米軍の訓練機が轟音をたてて飛ぶ沖縄の空を眺めながら考えました。(坂岸)
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