2017年11月
2017年11月30日 (木)
2017年11月29日 (水)
サン・マルタンから授かった「サン・マルタンの夏」
先日、「サン・サヴァンと西フランス・ロマネスク」の旅から帰国しました。旅はフランス南西部の町ボルドーから始まり、パリが終点でした。このルートは、サンティアゴ・デ・コンプステラへの巡礼路でもあります。イエスの使徒の一人、聖ヤコブの遺骸が9世紀に発見されると、各地から巡礼者が訪れるようになり、キリスト教の聖地となりました。お今回は、その巡礼路の途上にある街や村でロマネスク教会をめぐることが目的の旅でした。主に11世紀~12世紀頃に建てられた小さな教会は、村の中に溶け込むように佇んでいます。そんな教会の内部壁一面のフレスコ画や彫刻で装飾されているのが特徴です。
今回、訪問した教会の中でも印象的だったのが、ノアン・ヴィック村サン・マルタン教会のフレスコ画です。この時代は文字の読めなかったキリスト教徒にわかりやすいように、聖書の物語が描かれています。「受胎告知」や「東方三博士の礼拝」といった場面も臨場感のある活き活きした表情で描かれていて、感嘆するばかりです。
この教会の名前は「サン・マルタン」ですので、マルタンに捧げて創設されました。マルタンは4世紀に古代ローマ帝国に生まれた軍人でした。アミアン(現在のフランス北部)に派遣されていたマルタンは、ある寒い日に物乞いに自分のマントを半分に切って施します。実はその物乞いはイエス・キリストであったことから洗礼を受け、ポワティエやトゥール周辺で、伝道活動を続けました。フランスでは大変人気のある聖人です。ロワール川のほとりのサンブノワ・シュル・ロワールにあるサン・ブノワ教会の柱頭彫刻に注目してみましょう。マントの両側をサン・マルタンと物乞いが持ち、剣で半分に切っている様子が彫刻されています。
マルタンは生涯のうちに何度も奇跡を起こし、殉教することなく、カンドという地で没しました。マルタンの没後、その遺体を聖遺物とするために、トゥールとポワティエの間に争いが生じました。そこでトゥールの人々は、夜のうちにサン・マルタンの遺体をこっそりカンドから運び出したと言われています。さて、話をノアン・ヴィックのサン・マルタン教会に戻しましょう。この教会には、マルタンの遺体を運び出す様子が壁画に描かれています。ベッドを窓から出している様子は、臨場感たっぷりです。フレスコ画からは、なんとかサン・マルタンの遺体を獲得しようと必死な様子も伝わってきます。果たして、サン・マルタンの遺体はロワール川を遡ってトゥールにたどり着き、現在もトゥールに聖遺物が伝えられているのです。
サン・マルタンの遺体をロワール川で運んだ日は、11月にもかかわらず川岸が花で埋め尽くされるほどの暖かな陽気であったと言います。そのことから、「小春日和」をフランスでは「サン・マルタンの夏」と呼ばれるようになったと伝えられます。今回の旅行は10月下旬で、セーターやジャケットを着こむ季節でしたが、ノアン・ヴィックのサン・マルタン教会を訪れた日だけは、気温が25度ほどの暖かな陽気でした。まさにサン・マルタンの夏に、サン・マルタン教会を訪れました。これはサン・マルタンから授かったお天気のプレゼントだったのかもしれません。(斎藤さ)
2017年11月28日 (火)
アグリツーリズモで南イタリアの幻のチーズ、ブッラータを食す!
2017年11月24日 (金)
私が見つけた熊野古道伊勢路、3つのキーワード(三重)
先日、三重県の熊野古道伊勢路を歩くツアーに行ってきました。日本書紀や古事記の神話の時代から、紀伊山地は神々が集まる神聖な場所として知られたいた場所。人々はこの熊野に極楽浄土を求めて歩いていたそうです。
その中でも熊野古道の伊勢路は三重県の伊勢神宮から熊野までの約170kmを指し、上皇など身分が高い人が歩いた紀伊路と比べ、お伊勢参りを終えた庶民が熊野へ向かう参詣道として利用されたルートです。私たちはその庶民ルートの一部の峠越えに挑戦してきました。
そこで、その伊勢路の3日間をキーワード「石畳」「徐福」「里山」、この3つを通してご紹介したいと思います。
■「石畳」
伊勢路の特徴は、やはり何と言っても山道に続く美しい石畳。私たちは伊勢路の中の、馬越峠、ツヅラト峠、波田須の道、3か所をハイキング。江戸時代の人たちが1日20~30キロ歩いて完歩したルートの良いとこ取り。なんと、紀伊半島東部は日本有数の多雨地域で、屋久島の次ぐらいに雨が多い場所、東京の約3倍以上。その為、山道が崩れないように舗装する為に敷き詰められたのが、この「石畳」だった訳です。古いもので鎌倉時代の石畳も残ります。「ここは籠屋がいたところ、ここは茶屋があり、ここで足を洗う洗い越し」と歩きながら語り部さんが説明してくれ、往時の情景が目に浮かぶようでした。
■「徐福」
全国に残る徐福伝説。秦の始皇帝に命じられて「不老不死」の薬を求めてきた人物。約3千人の従者を連れて海を渡り、日本に今から2200年前に行き着いたのですから、想像を絶します。本当は始皇帝の暴君ぶりに堪えられなくなって亡命してきた説もあるそうですが、日本全国に徐福が辿りついたとされる場所が残り、ここ三重の波田須にも徐福のお墓があります。ここに到着した証拠に、当時中国で使われていた半両銭がこの辺りで出土したと語り部さんがなんと本物を見せてくれました。半信半疑になりながらも、去り際に不老不死の薬とされた「天台烏薬(テンダイウヤク)」を実はひっそりとポケットに忍ばせました。
■「里山」
ゆっくりと林道を歩き終わると伊勢路では必ず里山が見えてきます。ちょうど10月の下旬、秋の季節だったこともあり、収穫の時期。歩いていると「どこから来なさったのか」と尋ねられ、話が弾むと、やれサツマイモ、やれ蜜柑、と収穫物をおすそ分け。観光客をも温かく迎え入れてくれました。こんなこと都内ではきっとあり得ません。また流行りのIターン転職で他県から移住して働いている若者にも多く出会い、彼らが作る地元直産蜜柑ジュースは絶品でした。普段の生活では感じない人と人との繋がりを感じた優しい空間にほっこり。
神様も仏様もいる聖地、熊野古道。神仏混淆(習合)の日本独自の宗教観が息づく、スピリチャルな紀伊半島。普段は全くもって歩かないのに、次は中辺路、小辺路の順に挑戦したい!と帰路、神は私を決意させました。(坂岸)
2017年11月22日 (水)
地元の人に愛される!クロアチアのミケランジェロが残した、“生きた”世界遺産
先日スロベニアとクロアチアの添乗より帰国しました。
黄葉真っ盛りの旅でしたが、今回は添乗員も感動したクロアチア・シベニクの聖ヤコブ大聖堂をご紹介します。
アドリア海沿岸のダルマチア地方は中世にはベネチア帝国の傘下の町々が転々と沿岸部に連なっていた地域です。そのうちの1つだったシベニクには、1431年から100年以上の時をかけて作られた大聖堂あります。その建築の指揮を取ったのは近郊のザダルという町出身の建築家であり、彫刻家でもあったユライ・ダルマティナッツです。地元ではその多才ぶりから「クロアチアのミケランジェロ」と親しまれています。
このダルマティナッツさんは当時の最先端だった都ベネチアで学び、当時花開いたルネサンス芸術を吸収して故郷ダルマチアに戻って、この地域にルネサンスを広めた先駆者でもあります。
そんな彼が手がけた大聖堂は外壁には72人の顔の彫刻があり、建設に使われた石灰石はアメリカのホワイトハウスにも使われた近郊のブラチ島のもので…など添乗員として皆様にご案内する情報は山ほどあるのですが、せっかく足を運んでいただいたならぜひご覧いただきたいのが内部の洗礼室です。
主祭壇の右奥、半地下になった洗礼室には天井と壁、洗礼盤に精緻な彫刻が施され、小さいながらとても密な空間が広がっています。三位一体が表されているといわれる礼拝堂ですが、天井には父なる神と鳩で表された精霊が彫られているのみ。子のキリストがいないのですが、彼はあえてキリストを彫らないことによりこの洗礼室を不完全なものとして作りました。
なぜかというと、そう、この洗礼堂は洗礼の儀式のための赤ちゃんが現れて初めて完成するのです。洗礼盤のところへ運ばれた赤ちゃんは天井の彫刻の父なる神と精霊に見下ろされ、洗礼受けるだけでなく、その子自身が子なるキリストの役を演じ、それによって完成した教会の一部になるのだそう。ルネサンスを学び、「人間こそ大切にすべき」という信念を持っていたダルマティナッツらしい、なんて壮大な仕掛け!
この大聖堂は世界遺産になってもなお、地元の人のための教会として使われています。今回私たちを案内してくれたガイドさんも先日ここで結婚式を挙げたそうで、「子供が生まれたらここで洗礼式をするの!」と目を輝かせて言ってしました。
今年もう1つ世界遺産が増え、ますます注目を浴びるシベニク。人口3万人ほどの町にとってどれほど誇らしいか熱っぽく語ってくれたガイドさんが印象的でした。
クロアチアに行ったら、ぜひ、地元シベニクの人に愛される聖ヤコブ大聖堂も訪れてみてください。(松永華)
2017年11月21日 (火)
世界遺産のモエ・エ・シャンドンの迎賓館での優雅なランチを楽しむ(フランス・シャンパーニュ地方)
先日、「ビジネスクラスで行く 東フランスの美しい村と美酒の郷 9日間」より帰国致しました。秋は夏に比べ、観光客も少なく、普段は混み合う美術館をゆっくり堪能でき、街や村、教会も黄金色の木々に彩られ、写真の撮りがいがあります。そして、何よりも黄葉した並木道や大地が広がり、普段は何もない車窓からの風景も思わず溜息が出るような黄金色に輝く秋のフランスを満喫してきました。
今回のツアーではシャンパーニュ地方で最大規模を誇るモエ・エ・シャンドンのセラーを訪問しました。
モエ・エ・シャンドン社があるのはシャンパーニュ地方の小さな町エペルネという街。街には周辺に広がるシャンパン専用のぶどうを使ったシャンパンカーブが立ち並んでいます。
その中でも、1743年創業のモエ・エ・シャンドン社はドンペリ"こと、ドンペリニヨンのブランド名を所有する世界有数の会社。
本社の入り口にはシャンパンの生みの親とも言われるベネディクト会の修道士、ドン・ピエール・ペリニヨンの像が聳え立ち歴史と威厳を実感します。
発泡性ワインの誕生には諸説ありますが、その1つにこのドン・ペリニリョンが発酵中のワインを瓶詰めして放置したところ、偶然シャンパンが出来たという逸話が残っています。
なぜ、モエ・エ・シャンドン社が、ドンペリニヨンの名前を使用しているのかというと、ドン・ピエール・ペリニヨン他界後の1797年から彼が一生を捧げた修道院とブドウ畑を所有し、商標権を獲得したから。
建材用の採石場跡を利用して作られたセラーの中は全長は28kmにも及び、まだ瓶内の二次発酵の状態でラベル付けがされていない貴重な何百万本のシャンパンが眠っていました。中には鉄格子の中で保管されているシャンパンも。モエ・エ・シャンドン社のシャンパンは通常のシャンパンでも最低2年半、ヴィンテージで約5年、ドン・ぺリにおいては7年も熟成しなければなりません。長い熟成期間を設けてどこまでも品質にこだわっているそうですが、現存する最古のものは19世紀に作られたシャンパンを今でも熟成し続けているそうです。
その後は、今年世界遺産に登録され、モエ・エ・シャンドンが世界の要人たちをおもてなしする為に使われて来たオランジェリー(迎賓館)に移動して、私たちだけの貸切ランチ。
4コースの料理とその料理ごとにシャンパンを飲み替えて、料理とシャンパン両方をお楽しみ頂きました。
今回出てきた料理とシャンパンは
前菜
シャンパンに一度泳がせ香りづけをし、茹でたオマール海老エンドウ豆と共に
シャンパンはブリュット アンペリアル白 2012年
メイン
牛ヒレ肉のグリルとフォラグラ、季節の野菜添え グラン
シャンパンはヴィンテージ ロゼ 2008年
チーズ
三種の牛のチーズ(24ヶ月 18ヶ月 12ヵ月熟成)
シャンパンはヴィンテージ 白 2008年
デザート
赤いフルーツのミルフィーユ
シャンパンはネクターインペリアルのロゼ 2010年
卓越した創作性溢れる料理の数々とモエ・エ・シャンドンが誇るシャンパンとのマリアージュ、洗練されたおもてなしとその全てが満たされた心地よさはこの地を訪れたからこそ出来る体験。
一生思い出に残るであろう、優雅で贅沢なランチタイムでした。(三浦)
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2017年11月17日 (金)
知る人ぞ知る、クロアチアのミニ・プリトヴィッツェで癒しのひと時
秋の訪れの中、たっぷりとマイナスイオンを浴びせてくれた場所があります。クロアチア中部にある、木々と水に囲まれたラストケ村です。
なぜ、こんなに小さな村が観光地になり得たと思いますか? ヒントは、首都ザグレブと、世界遺産のプリトヴィッツェ国立公園をつなぐ道の、ちょうど中間地にある…。
そうです、ラストケ村は旅行客の休憩地だったのです!
クロアチアが観光地として人気が上昇するとともに、プリトヴィッツェ国立公園を訪れる人が激増、ラストケ村に訪れる人も激増。この美しい景色の村に魅せられ、次第に観光地として立ち寄る人々が増えていったというわけです。
このように観光地となるまで、村の住民達は、山の高低差で生じるスルニ川の小さな滝を活かした水力による製粉業で生計を立てていました。滝のすぐ上に粉挽き小屋が建てられ、それぞれの滝にはその小屋の所有者の名前が付けられていました。17世紀の村が一番栄えた時期には、ラシュトケ村の中に22もの粉挽き小屋があったと言われています。
水車小屋は現在3軒が再建されたのみですが、今回のツアーではその粉挽き小屋の一つの内部を見学しました。川にせり出して小屋が作られており、床から下の川を覗けるようになっています。木造の水車がキコキコ音を立てて回っていく様子は、なんだか懐かしい気持ちにさせてくれます。
2017年11月16日 (木)
日本とどちらが美しい?黄葉のポーランド
10月のポーランドから帰国しました。日本ではいよいよ紅葉のシーズンがやって来ます。赤や黄色に色づいた木々はとても美しいですよね。国土の約30パーセントが森林に覆われ、都市部にも緑溢れる公園がいくつもあるポーランドでも、美しい黄葉を鑑賞することができました。
ポーランドの黄葉のシーズンは日本より少し早く、9月中旬くらいから葉が色づき始め10月に入るといよいよ見頃を迎えます。日本では、黄色の他に赤く色づく葉が見られますが、ポーランドでは黄色の木々が殆どです。これは、生えている木々の種類に基づくものです。イチョウやブナ、トチノキのような植物が多く、日本の紅葉の代表格である、イロハモミジやコナラの木はあまり生えていません。モミジの仲間のヨーロッパカエデなどは生えていますが、これらのカエデは赤くは色づきません。赤い葉が混じっていた方が綺麗なのではと思われる方もいらっしゃるとは思いますが、周りの建物や風景と相まって、黄色だけでも日本の紅葉に負けず劣らず見応えのある姿を見せています。
中でも、ワルシャワのワジェンギ公園の黄葉は素晴らしく、冬支度の為ドングリやクルミを集めにやって来るリスなど、様々な動物たちとの出会いを楽しむことも出来ます。今回のツアーでは、久しぶりに雨のあがった日だったこともあり、普段は入らない公園の奥まで散策をしてきました。街の人々にとってもこの時期に公園の散歩をすることは休日の楽しみの一つのようです。
ショパンの前奏曲「雨だれ」のように、どこか寂し気のある長い雨があがったあと眺める黄葉もなかなか味があるものだと感じました。
(佐藤史)
2017年11月15日 (水)
蘭州・炳霊寺石窟で中国仏教を味わう(中国)
先日「遙かなる河西回廊への道 11日間」より帰国しました。
河西回廊とは、シルクロードに東端に位置する蘭州から敦煌までの間を指します。黄河の西の細長く延びた路ということで河西回廊(河西走廊)と呼ばれます。今回のツアーでは河西回廊をバスで走破しました。
河西回廊の始まりの地・蘭州で私たちは炳霊寺を訪れました。
当ツアーでは莫高窟など中国仏教の史跡を存分に巡ります。
ただ炳霊寺石窟は、他の石窟と異なる部分があります。
それは船に乗らないとたどり着けないことです。
まずは蘭州市内から黄河沿いに、蘭州郊外の炳霊寺へ向かう船着き場まで行きます。
船着き場で、小型のモーターボートに乗り黄河をせき止めた劉家狭ダムを渡り30分、
炳霊寺石窟に到着します。
炳霊寺石窟は奇岩に囲まれています。その風景はまるで桂林のようです。
炳霊寺の「炳霊」とは、チベット語で十万仏を意味します。
石窟の造営は約1500年前に始まりました。北方の鮮卑族が最初に屈を開き、清の時代まで約1000年に渡って造営が続けられました。
黄河の北岸の切り立った崖に、全長2km、上下四層にわたって合計183ヶ所の石窟が
掘られました。唐代の石窟が最も多く、3分の2を占めています。
以前は、炳霊寺の前を黄河の本流が流れていましたが、1970年代にダムを建設し
黄河の本流の流れを人工的に変えたために、一部下にある石窟が水没してしまいました。
仏像の顔立ちやただずまいが、インド様式であったり中国様式であったり、掘られた時代によって特徴がすこしずつ変化する様子を見ることができます。
一番迫力があるのは、なんといっても高さ27メートルある171窟の唐時代の大仏です。
この石仏は後ろの山に直接掘られています。
ご覧の通り、石窟は中心地から離れていてかつ険しい場所にあるため、他宗教による破壊や探検家たちの盗掘から逃れることができました。今日も西安や敦煌と比べると訪れる観光客は少なく、ほぼ貸し切り状態で石窟観光を行いました。
これらの石仏は1000年以上、王朝の興亡を見つめてきたと思うと胸が躍ります。
中国の歴史も自然も同時に満喫することができました。
もう少し石仏と時間を共に過ごしたいと名残惜しくも、再びボートに乗り劉家狭ダムを渡り、炳霊寺石窟を後にしました。(白井)
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2017年11月14日 (火)
青空と雪山、黄葉に囲まれたコーカサスの仙境、ジョージア・スワネティ地方
先日、「コーカサス三国物語15日間」の添乗より戻って参りました。15日間のツアーでは、陸路でアゼルバイジャンからジョージア、そしてアルメニアまで走破します。この行程で特に印象に残ったのは、絶景が広がるジョージア・スワネティ地方でした。
スワネティ地方は、ジョージア北部にある大コーカサス山脈の麓に広がり、「上スワネティ」と「下スワネティ」に分かれています。上スワネティは、1996年に世界遺産に登録されました。上スワネティは15世紀にはスワネティ公国として、ジョージア全体がロシアに併合されるまで独自の文化を育んできました。この辺りに暮らすスワン人はジョージアの中でも特に古い民族であり、勇猛なことでて知られています。
私たちは、ジョージア北西部サメグレロ地方の中心都市ズグディディを出発し、「十字架の村」という意味のジュワリ村を過ぎて、スワネティ地方の山道に入りました。そして、スワネティ観光の拠点メスティアまでは、黄葉シーズン真っ只中のエングリ渓谷の中を走りました。途中のお手洗い休憩も、思わず写真を撮り続けてしまいます。エングリ川の下流には、世界で3番目に大きなエングリダムがあります。将来、エングリダムの博物館が建設されると発表されていました。
メスティアに近付くにつれて、地面からニョキニョキと生えてきたような不思議な塔が見え始めてきました。まるで、ジブリ映画やどこかのファンタジー映画に出てきそうなユーモアな塔ですが、実は、これには血なまぐさいエピソードがあります。コーカサスやバルカン、中央アジアの国々では、「血の掟」という、ある一族の人が殺されれば、殺した相手の一族を殺せると定めた復讐制度がありました。その復讐は、どちらかの一族が絶滅するまで続けられたといわれています。この「血の掟」から身を守るために要塞の役割として建てられたのが、このニョキニョキと伸びた塔です。ファンタジーな印象から一転、ホラー映画感が漂ってきました。恐ろしい歴史を回想しながら、塔や大自然の景色を見ているうちに、メスティアに到着しました。
この塔が綺麗に見える村といえば、ウシュグリ村。メスティアから3時間、四駆で山を走り抜けると、塔と小さな村だけが残るウシュグリに到着しました。不思議な塔と黄葉の斜面、後ろに聳える真っ白な雪山…まるで仙境へと来てしまったかのような感覚でした。大コーカサス山脈の標高4,695mのウシュバ山と標高5,068mのシュハラ山も、ばっちり見えました。そして、この大自然の中で食べるジョージア料理は、特別に美味しかったです。私たちはウシュグリ村での観光を終え、この絶景を心に焼き付けながらメスティアへと戻りました。今回のスワネティ地方の黄葉は、忘れられない景色のひとつとなりました。(松本)
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2017年11月10日 (金)
青きドナウの果てに出会った景色
2017年11月 9日 (木)
ヨーロッパ一美しい、クロアチアのミロゴイ墓地へ
2017年11月 8日 (水)
秋の南西フランスで中世の村での暮らしを思う
2017年11月 7日 (火)
その大きさギネス級!モルドバのワイナリーへ
2017年11月 2日 (木)
地獄と天国?!トルクメニスタンの魅力!
朝晩、地獄を楽しんだ後は、首都アシハバードへ。砂漠地域とは全く違い、非常に近代的な街並み。真っ白な大理石の建物が700棟以上あり、世界一大理石の建物が多い町としてギネスブックにも載っています。初代大統領ニヤゾフの時代に天然ガスで得た財源で、街が大理石に生まれ変わりました。また、大理石だけでなく、天然ガスの恩恵は市民の生活にも還元されており、水、電気、ガス全て無料!!中でも、電気は天然ガスで発電しているそうで、街中のネオンにも贅沢に使われています。夕方暗くなると、とたんに街がネオンでいっそう明るく輝きだすのです。少し高台から見下ろすと100万ドル?!には少し及びませんが、すばらしい夜景が見られました。町のネオンにゴミ一つ落ちていないきれいな道路、そして大理石の建物・・・アシハバードの夜は天国のようでした。(杉林)
2017年11月 1日 (水)
中世の情緒残るエストニア、タリン旧市街
先日、「バルト三国を極める旅11日間」の添乗より帰国致しました。黄葉シーズン真っ盛りの秋のエストニア。異国の文化を取り入れた古き良き中世の町並みが残り、まるで中世にタイムスリップしたかのように、石畳を歩き、お城や教会を訪ねて回りました。
今回訪れた3ヵ国は、“バルト三国”とひとくちに語られがちですが、言語、宗教、民族とそれぞれ全く異なり、それぞれに違った魅力を持っています。
中でも印象に残ったのは、最後に観光したエストニアの首都タリンの旧市街。エストニアは中世にはドイツ騎士団、スウェーデンそしてロシア帝国と支配者がコロコロと変わり、文化や宗教も各国の影響を大いに受けています。旧市街を歩いていても、旧市庁舎や大聖堂をはじめ、13~15世紀に造られた建物がほとんどです。しかしその後、1940年にソ連に併合されると、町並みもソ連風のものに改修され、ヨーロッパらしいゴシックやバロック様式の建築の中に、暗いグレーの建物もちらほら見ることが出来ました。ちなみに今回私たちが宿泊したホテルも、ソ連時代にKGB(国家保安委員会)のオフィスが置かれ、宿泊していた外国人を監視・盗聴していたところでした。(現在はフィンランド資本のホテルなのでご安心を!)
10月のタリンは朝6度と寒い中、今回は丘の上の町から下の町にかけておりて散策するコースでご案内。旧市街は当時、貴族たちの住む丘の上の町と、商人や職人たちが暮らす下の町に分かれていました。まずはエストニアを支配していた全帝国が拠点を置いた丘の上のトームペア城。丘という自然の城壁をもつ好立地な場所に城が建設され、現在は旧市街が一望できる展望台が多数設けられています。
タリンの城壁は、最盛期には長さ2.4kmの城壁に沿って46もの塔が造られました。有料でこの城壁の一部を歩いていくこともできます。丘の町から下の町へ下ると、ハンドメイドのお店や露店などでにぎわう活気ある風景に。ヨーロッパ諸国で見るような派手な装飾の建築ではないのですが、素朴で落ち着いた雰囲気がどことなく落ち着きます。
今回、ツアー最終日に過ごしたタリンの自由時間に、15世紀のハンザ同盟都市の商人の家を改築したレストランで夕食を頂きました。当時の様子を再現した店内では、ウェイターさんも中世の洋服のコスプレをしていたり、テーブルにキャンドルが置かれただけでほとんど真っ暗!何を食べているのやらと懐中電灯片手に最後まで中世の雰囲気を堪能して旅を締めくくりました。(西澤)
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