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2018年10月

2018年10月30日 (火)

3500年間、火山灰の下で眠っていた古代都市(アクロティリ遺跡/ギリシャ)

先日、ギリシャ15日間のツアーより帰国致しました。
冬に向けて徐々に肌寒くなる頃ですが、ギリシャの太陽はまだまだ元気。そんな時期のツアーでした。
ギリシャ本土から、島を伝って北から南まで訪れるツアーということもあり、様々な場所へ赴きましたが、私が最も心惹かれた場所がこちら。

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アクロティリ遺跡です。
青い海と青い空、白い建物と教会の青いドームで知られる、サントリーニ島の南に位置しています。
サントリーニ島へバカンスへ訪れる観光客は多いものの、中心地から車で約40分程の好立地にあるにも関わらず、この遺跡はあまり有名ではありません。

アクロティリは、クレタ島のミノア文明が栄えていた頃と同時期に存在していた都市と考えられています。
ですが、紀元前1500年頃の海底火山の噴火の影響により、この都市は崩壊しました。
古代都市の栄華は、都市の全てが火山灰で覆い尽くされるという結果で、終焉を迎えることとなったのです。

それから誰の目にも触れられぬまま、1967年にギリシャ人考古学者マリナトスによって発掘されるまで、ひっそりと火山灰の層の中で眠っていました。

驚くべきは、その発掘品。なんと3500年前の壁画が、色を残した状態でいくつも発見されたのです。

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<アクロティリの壁画(ギリシャ)>

火山灰で埋もれたことにより、劣化が少なかったことが功を奏したのでしょう。
その壁画の一部は、サントリーニ島のフィラにある先史博物館で見ることができます。

また、壁画だけではなく、古代都市の生活スタイルを想像できるような品も多数出土しています。石膏を使い、木製のベッドや椅子等の再現も進んでおり、3500年前に人々がどんな生活を営んでいたのか、目の前に浮かんでくるかのようです。

この遺跡の興味深い謎は、まだまだたくさんあります。
たとえばこのアクロティリ遺跡、50年の発掘作業を経ても、人骨や金銀財宝が未だに見つかっていない、ということ。突然の天災に見舞われて、都市が姿を消したはずなのに...?
つまり、当時の住民は何らかの方法で災害を予見して、財産を持ってどこかへ逃げたと考えるのが、妥当ですよね。
一体どうやってそんなことを知ることが出来たのかと考えれば考えるほど、謎は深まるばかり。その当時の人々には、ほんとうに神託や神から与えられた予言の力があったのではないかと考えてしまいます。

私たちが訪問した時は、ちょうど遺跡の片隅で発掘作業の真っ最中でした。神殿跡と思しき場所からは、奉納品と考えられる金色のヤギ像が発掘されたりと、まだまだアクロティリの新発見は続きそうです。続報に期待!

最後に、美しいサントリーニ島の景色をおひとつ。

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<サントリーニ島(ギリシャ)>

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2018年10月25日 (木)

食で楽しむモロッコの旅(モロッコ)

先日、「青の街シャウエンとモロッコ周遊 9日間」の添乗より帰国しました。モロッコと言えばサハラ砂漠、青の街シャウエン、世界複雑な迷路の街フェズなど、様々な魅力が詰まり変化に富んだ国です。今回は、旅の楽しみのひとつである食 モロッコ料理についてご紹介します。

まずは前菜としてよく出されるのが、モロッカンサラダ。さいの目に切られた色とりどりの野菜が美しく盛りつけられています。トマトやきゅうりなど使われている野菜はシンプルですが、レストランによって盛り付けも様々なので、目でも楽しめるインスタ映え(?!)なサラダです。

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次にモロッコ料理で絶対外せないのがタジン鍋料理!とんがり帽子のような独特な形の鍋でお肉やお野菜を蒸す近年日本でもヘルシーで人気の高い逸品です。現地では、毎週金曜日礼拝の後、家族で楽しむ定番料理として親しまれています。ツアー中提供されたのは、鶏肉、人参、じゃがいものタジン。シンプルで素材の味を生かした優しい味でした。

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最後に伝統料理パスティーリャと呼ばれる挽肉やアーモンドが入ったパイ料理です。何と言っても最大の特徴は、シナモンが振りかけられている点です。挽肉の塩味とシナモンの甘味が相まってやみつきになるのが不思議な感覚です。

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モロッコの先住民ベルベル人のベルベル料理が、アラブ諸国、ヨーロッパ、トルコなどの食文化に影響され、現在の形に落ち着いたモロッコ料理。エキゾチックな雰囲気の中、名物料理に異国の味に舌鼓を打った旅でした。(大和田)

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2018年10月21日 (日)

サハリンの少数民族、ニブヒ族

この度、サハリン大縦断と銀河鉄道の旅より帰国しました。
サハリンは、北海道の北に位置する細長い島。島の南部(樺太)は戦前日本が統治していた事もあり、製紙工場跡や銀行跡など、日本時代を感じさせる建物が残っています。

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<ホルムスク 製紙工場跡>

既に廃墟となった建物も多いのですが、コルサコフ(旧大泊)の拓殖銀行跡はサハリン州の歴史的建造物として保存することに決まったそうで修復工事中でした。
王子製紙によって建てられたサハリン最初の製紙工場(1914年)は、危険な為ロープが張られた場所もありますが、現在も建物の一部を利用しています。
また、日本時代から漁業、造船などが盛んなホルムスク(旧真岡)の製紙工場は、ソ連時代になってもトイレットペーパーやノートなどを生産して、地元の雇用を支えていました。
廃墟となった今も、かつての繁栄を感じさせる立派な佇まいです。

ツアーでは日本との関わりが深い南部だけでなく、鉄道を利用して北部まで足をのばしました。

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<オハ石油櫓>

日本時代に開通した鉄道は戦後ソ連が延長し、現在、ノグリキという町まで鉄道で行くことができます。

車窓からはオホーツク海や雄大な原野の眺めが楽しめます。
ノグリキは「臭い水」という意味。現在サハリン北部は石油の採掘が盛んで、オハの町などで沢山の掘削機を目にしました。
昔からノグリキ周辺に住んでいたニブヒ族もトゥイミ川に混ざる黒い液体の存在に気づいていたようです。
サハリン島には昔からニブヒ、ウィルタ、アイヌ、イヴェンキなどの北方少数民族が暮らしていましたが、ロシアの同化政策によって学校で民族の言葉を教えなくなり、急速に言語や文化が消えてしまいました。

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<ニブヒ族言葉>

現在、ニブヒ族の婦人会の方々が博物館に協力して伝統を伝えています。

ノグリキの郷土博物館に展示された、魚やトナカイの皮を使った衣装、骨から作った道具、白樺の木を利用した住居や家具を見ると、いかに限られた資源を駆使していたかが分かります。
映像を使って、一般には禁止されているアザラシ猟の方法やアザラシの皮や油を使った料理の作り方を見せてくれました。
とても美味しいとは言えない、必要な栄養を取るためだけの保存食のような物だそうです。

婦人会の方々が披露してくれた伝統舞踊は、彼らの自然に寄り添った控えめな生き方が垣間見れました。
雄大な自然の中で暮らす人々が仲間同士の交流に、また儀式などで行う歌や踊りです。
木の棒をコンコン、カンカンと静かにたたき、風に乗せて遠くに運ぶかのような音楽。
人に見せるよりも自然との交流を意味するかのような静かなダンスに、厳しい冬を乗り越えて春の喜びを表現するかのような歌。

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<ニブヒ族伝統芸>

便利になった現在の暮らしの中では失われていくのは仕方がないように感じました。
ロシア連邦には22の共和国があり、180以上もの民族が暮らしているといいます。
都市が発達するにつれ消えていった民族や伝統も数多くあるなか、小さな島だからこそ残った民族。サハリンでそんな一例を見た気がします。(関根)

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2018年10月18日 (木)

生命の楽園、パンタナールへ(ブラジル)

先日、「レンソイスの絶景とパンタナール・スペシャル 10日間」のツアーより帰国しました。今回のツアーのハイライトは、なんといってもパンタナールです。南米大陸中央部、ブラジル、パラグアイ、ボリビアの三ヶ国にまたがる世界最大級の大湿原。日本の本州に匹敵する広大な湿原には、1000を超える鳥類、数百種に及ぶ哺乳類や爬虫類が生息しています。今回のツアーでは、2日かけて北及び中央パンタナールにてドライブサファリやボートサファリで動物たちに会いに行きました。

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最近話題のジャガーやカピパラ、カイマンなど様々な動物に出会うことが出来ましたが、パンタナールと言えば、やはりトヨヨではないでしょうか。コウノトリの仲間では最大で、体長150cm、羽の先から先まで3m近くなり、体重は10kgを超えます。ボートで近づいても逃げずにどっしり構えている姿は大きさも相まってなかなか迫力がありました。只、首元の赤が映え、つぶらな瞳がどうしても可愛らしいと思ってしまうのは私だけでしょうか。

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他には、可愛らしいと思って(いた)動物もいます。それは、オオカワウソです。ボートサファリで群れを発見しました。オオカワウソは、イタチの仲間では最大。体調2m、体重は30kgにもなります。一見顔は可愛らしいのですが、群れで狩りを行う“川のオオカミ”としても知られていて、ジャガーもあまりオオカワウソには手を出さないのだとか…。食べる姿もなかなかワイルドで、実は恐ろしい動物でした。

多種多様な動物に出会えたパンタナールは、まさに生命の楽園でした。(五島)

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2018年10月11日 (木)

ナショナリズム溢れる地、ルーマニアとブルガリア

先日、「ルーマニアとリラの僧院 10日間」の添乗から戻りました。ルーマニアとブルガリア、古くはローマ帝国、中世以降はオスマン帝国などの近隣大国の支配に脅かされながらも独立を達成するべく戦い続けた2国ですが、そんな2国のナショナリズムを感じられるような地を巡りました。

ルーマニアは中世以降、西はハンガリー、東はモンゴル、オスマン帝国と、当時世界に名を轟かせた強国の間に位置し、その脅威に曝され続けました。ブラショフに残る黒の教会はハプスブルク家との戦争で外壁が黒く焼け焦げた為その名がつきましたが、今では風雨で少し色が落ち、黒というよりは暗い灰色のよう。それでも17世紀に受けた被害が未だに残っていると考えると、戦争の苛烈さが伺えました。

同じブラショフにある建築物で、オスマン帝国に対する要塞として建てられたのがブラン城。ブラン城はブラム・ストーカーの小説「吸血鬼」に出てくるドラキュラ城のモデルになったお城です。ブラン城の中にはドラキュラが使用したと思わせるようなアイアン・メイデンや拷問椅子も置いていましたが、どちらかというとそれは「女吸血鬼カーミラ」のモデルになったバートリ・エルジェーベトのイメージでしょうか。

ドラキュラのモデルになったワラキア公ヴラド3世は「串刺し公」の異名で、ハンガリーによるプロパガンダ、ブラム・ストーカーの小説による誤認により恐れられたワラキアの君主ですが、実際にはオスマン帝国のワラキア侵攻を防いだ名君、ルーマニアの英雄でした。

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<リラの僧院>

ブルガリアではブルガリア正教の総本山リラの僧院へ。リラの僧院は、中世以降オスマン帝国の支配に置かれる中で、幾度戦火に焼かれようとその信仰を保ち続けた、ブルガリア人の心の故郷であるとも言われています。天井、外壁に描かれたフレスコ画の完成度からもその名に違わぬ信仰の篤さが感じられました。

もう一つの民族意識の高揚で連想される地はコプリフシテツァ村。ここは、オスマン帝国からの独立のために立ち上がった、四月蜂起が起こった地です。オスマン帝国の間者により四月蜂起は失敗しましたが、四月蜂起に立ち上がった人物の家屋や、四月蜂起の日付が名前になっているレストランもあり、ブルガリア人のナショナリズムの高まりを感じられた地でした。

異国の侵略に脅かされたことがほとんどない日本の歴史からは感じることが難しい、ナショナリズムに触れ続けた10日間でした。(永田)

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2018年10月 9日 (火)

芸術の街で本場のバレエを鑑賞(ロシア)

先日「バルト三国とサンクト・ペテルブルク 10日間」の添乗より帰国しました。バルト三国の主要都市、ビリニュス、カウナス、リガ、タリンを巡るだけでなく、ロシアのサンクト・ペテルブルクまで足を延ばします。

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<サンクト・ペテルブルクの運河>

ポーランドとリトアニアの関係、カウナスでの杉原千畝の活躍、美しい旧市街が残るリガやタリンなど見どころは多いですが、今回はサンクト・ペテルブルクに注目したいと思います。この都市は、ロシア西部フィンランド湾の河口に位置し、1917年まではロシア帝国の首都でした。もしかしたらソビエト時代のレニングラードの名前の方が聞きなれている方もいらっしゃるかもしれません。1703年からピョートル大帝によって建設が始まった街は、通りが放射状に整備され、町の中に運河が巡る非常に美しいものです。もちろんここに注目して散策するのも楽しいですが、この街はもう一つ芸術都市としての一面も持っています。
エカテリーナ2世により収集が始まったコレクションが集まるエルミタージュ美術館やフィルハーモニー交響楽団、ドストエフスキーの『罪と罰』の舞台となるなど様々です。

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<エルミタージュ美術館>

中でも、バレエはこの街を代表する芸術の一つです。ロシア国内において最も格調高いといわれるマリインスキー劇場など大小さまざまな劇場が存在します。今回、そんな劇場の中の一つ、ミハイロフスキー劇場で『眠れる森の美女』を鑑賞しました。マリインスキー劇場がこの街の大劇場(ボリショイ劇場)であるのに対し、こちらは小劇場(マールイ劇場)と呼ばれています。確かにサイズは小さい目ですが、内部の装飾などは非常に美しく、観劇前の気持ちを盛り上げてくれます。また劇団員の質も高く、多くはマリインスキー・バレエの付属学校の卒業生で構成されています。登場人物たちの微妙な心情を身体一つで表現するなか、邪悪な妖精の演技は力強くその存在を大きく見せるものでした。

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<ミハイロフスキー劇場>

かつては皇帝たちが独占していた芸術ですが、現在老若男女誰でも鑑賞することができます。バレエシューズを履き、おばあちゃんらしき人と楽しそうに鑑賞していた少女もいつかこの舞台でバレエを披露するようになるのかもしれません。(佐藤史)

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2018年10月 6日 (土)

元寇から日本を救った英雄!その名も「助国」さんの物語(長崎の壱岐・対馬の旅)

先日、「魏志倭人伝が息づく島・壱岐と防人の島・対馬 4日間」のツアーに行ってきました。
壱岐、対馬はかつて大陸(朝鮮半島)との交易の中継地だったが故にさまざまな人々が往来し、歴史が刻まれ、それだけに観光名所や見どころが想像以上に多い島でした。
今回の旅では、古墳~飛鳥時代の「古墳群」や弥生時代の集落と水田跡の「原の辻遺跡」、わずか50キロ先の対岸に韓国の釜山を望む「韓国展望所」、幻となった「ツシマヤマネコ」など様々な観光地を回り巡ってきました。
今日は壱岐対馬の旅で私が最も衝撃を受けた「防人」の話をご紹介します。

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<元弘で討死した兵士を祀った小茂田濱神社>

旅の終盤で立ち寄った対馬、南西部海岸にある「小茂田濱神社」。
この神社では、弁達者な地元の名ガイドさんから、かつて対馬にいた防人たちとモンゴル軍との死闘、思わず身震いするような武人達の獅子奮迅の大活躍の話を聞いてきました。

「防人」と言えば、必ず歴史の教科書で鎌倉時代に登場するので覚えている方も多いでしょう。当時破竹の勢いで西へ東へ覇権を広げていたモンゴル軍が日本に襲来した頃、国を守る為に3年間の任期で九州北部に配置された守備兵のことです。この防人たちは日本全国、遠くは東国(関東や東北地方)からも馳せ参じ、対馬を含む九州沿岸一帯で戦闘配置につきました。
そんな防人たちとともに日本を守る為に命をかけて戦った人々がいました。

そう、九州と朝鮮半島の間に浮かぶ「対馬」の人たちです。
モンゴル軍が襲ってきた13世紀に対馬を統治していたのは宗家でした。 宗家は12世紀から19世紀の明治維新まで断絶することなく、長らく対馬を治めた藩主です。元寇や戦国時代の朝鮮出兵時には先頭に立って戦い、時には対朝鮮外交の窓口となり、難しい交渉や折衝を担って幕府の信頼を得ていました。
そして時は1274年。
兵3万人を満載した軍船900隻が対馬の沖合に現れました。
蒙古軍襲来の知らせを聞いた時の当主、宗助国は68才。
老将は迷うことなく80騎兵を従えて一目散で西岸の佐須浦へ向かい、ひるむことなく大軍を相手に奮戦し、全員が討ち死にしました。
蒙古軍との壮絶な戦いを物語るかのように、助国の亡骸を納めた墓は、首塚や手足塚、胴塚、果ては太刀塚など小茂田浜神社周辺に散らばっています。 小茂田浜神社は軍神となった助国以下、元寇で戦死した武士達の霊を祀っています。
蒙古の大軍が押し寄せた神社の裏、佐須浦を歩いてみました。
海岸は埋め立てられ、今は美しい浜辺になっています。

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<1274年、兵3万人を満載した軍船900隻が現れた佐須浦>

海開き前の初夏だったので、まだ人っ子一人おらず、ここで大軍が押し寄せ死闘を繰り広げたことなど全く想像できないほど平和な時間を感じました。 波風なく、静寂に包まれた美しい浜。
穏やかな午後の日差しが印象的でした。
現在でも毎年11月12日には、士族の末裔が鎧に身をかためて小茂田浜に集い、恐ろしい元寇を記憶に留め後世に伝える大祭が続いています。 鎧武者を先頭にした「武者行列」が佐須浦の浜まで練り歩き、蒙古軍を迎え打った時と同じく、海に向かって矢を構える「鳴弦の儀」と呼ばれる、弓射りが行われます。
実は、この対馬を長らく治めた宗氏は現在まで脈々と続いており、現当主であり、宗氏の末裔の方が毎年このお祭りの時期に対馬を訪れているそうです。 海に向かって武士大将役が「エイエイ」と采配を振るうと武士たちが太鼓を叩き「オーオー」と呼応する姿にかつての老将、助国の姿を見たような気がしました。(上田)

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2018年10月 4日 (木)

ハラハラドキドキ、大ツィンギーハイキングへ!(マダガスカル)

先日「マダガスカル、絶景ツィンギーハイキングとバオバブの里ムルンダヴァ 10日間」の添乗より帰国しました。
マダガスカルのツアーのハイライトと言えばバオバブの木とツィンギーのハイキング。10日間はどちらも楽しめるツアーです。

そのなかでもやはり皆様が1番楽しみにしているのはツィンギーのハイキング。
ツィンギーのあるベマラハ国立公園は、マダガスカル最大規模!
国立公園を知り尽くしたガイドさんと共に約4時間巡ります。

誰もが知っているあの針山のエリアでは、ハーネスを使いながら、岩やはしごをよじのぼっていきます。途中にはつり橋や洞窟などがあり、本当に大冒険。ハラハラドキドキが止まりません!ただ、ガイドさんも3人ついてくれるので安心。
展望台からは一面針山の絶景が!ここまで苦労してのぼった分、達成感も味わえます。

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<大ツィンギー>

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<ツィンギー 吊り橋>

ツィンギーの針山だけでなく、その前後では森のエリアもあります。
森のエリアでは、運がよければ野生の動物を見ることが出来ます!
ただ野生なのでいつどこに現れるかは分かりません…
今回は3回もキツネザルを見ることが出来ました。
お客様もカメラのシャッターが止まりませんでした。

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<キツネザル>

暑すぎず、雲一つもない素晴らしい天候に恵まれ、お客様もツィンギーハイキングを満喫できたようです。(椎野)

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2018年10月 2日 (火)

アイスランドは生まれが違う!火と氷の島で絶景ドライブが楽しめる理由

先日、「アイスランド周遊と秋のオーロラ 10日間」のツアーより帰国致しました。

ロシアワールドカップでの話題になった北の島国は、よく「火と氷の国」と言われますが、ほかの国が真似できない、アイスランドだけの面白さを生んでいるのが「火山」、そして「氷河」といえるでしょう。

アイスランドという国は、地球が生まれる海嶺上に位置しているため、北海道と四国を合わせたほどの島内に無数の火山が点在しています。海嶺というのは、地球内部から新たな大地が生まれる山脈のことで、通常は深い海の底にあります。
しかし、アイスランドが属する大西洋中央海嶺は世界最大、あまりに高い海底山脈が海から顔を出してしまったのがアイスランドなのです。

つまり、移動してできたほかの陸地とは「生まれ」が違うのです。こうした生い立ちを持つ場所は世界でたった二ヶ所、ここアイスランドと北アフリカはモロッコ沖のポルトガル領アソーレス諸島だけです。

地球が生まれるまさにその場所であるため、アイスランドはほかの大陸と比べて、とても若い大地であるのが特徴。今もこの活動は続いているため火山の噴火が絶ませんが、アイスランドは小氷河期で厚い氷に閉ざされたので、火山の上に氷河がある世にも不思議な土地となっています。

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< 地球の割れ目ギャウを歩く>

人口の6割が集中するレイキャヴィク首都圏を出れば、あっという間に別世界が広がります。島の海沿いをぐるりと囲む、国道一号線(リングロード)を行くドライブでは、ただの移動にはなりません。

ある日は浅黒くゴツゴツしたむき出し溶岩台地を走り、またある時は思わず触りたくなるもこもこの苔の世界を抜け、別の日には氷河が国道のすぐ脇まで迫ります。空を映すフィヨルドの水、切り立った山々から流れ落ちる無数の滝、煙吹き上げる硫黄泥の沼。

また、この島の大半は溶岩性の土地のめ植物が大きく育つだけの土がなく、ほとんどの植物は膝丈ほどもありません。9月上旬には、そんな植物たちも赤や黄色に色づき、赤茶の絨毯を広げて精一杯短い秋を知らせてくれます。写真だと茶色に見えてしまいますが、実物の方がもっと綺麗です。保証します。
また、夜もきちんと暗くなる秋にはオーロラが楽しめるのもお勧めポイント。暖流が近くを流れているため、東京の冬の格好で十分です。

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<黄色と赤色に染まったアイスランドの台地>

生い立ちを知るほどに、感動と愛着が深まっていく島アイスランド。素晴らしい風景はいくら形容詞を並べるよりも、百聞は一見に如かずです。うたた寝はしていられない、アイスランドのドライブへ出かけましょう!

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