2018年10月 6日 (土)

元寇から日本を救った英雄!その名も「助国」さんの物語(長崎の壱岐・対馬の旅)

先日、「魏志倭人伝が息づく島・壱岐と防人の島・対馬 4日間」のツアーに行ってきました。
壱岐、対馬はかつて大陸(朝鮮半島)との交易の中継地だったが故にさまざまな人々が往来し、歴史が刻まれ、それだけに観光名所や見どころが想像以上に多い島でした。
今回の旅では、古墳~飛鳥時代の「古墳群」や弥生時代の集落と水田跡の「原の辻遺跡」、わずか50キロ先の対岸に韓国の釜山を望む「韓国展望所」、幻となった「ツシマヤマネコ」など様々な観光地を回り巡ってきました。
今日は壱岐対馬の旅で私が最も衝撃を受けた「防人」の話をご紹介します。

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<元弘で討死した兵士を祀った小茂田濱神社>

旅の終盤で立ち寄った対馬、南西部海岸にある「小茂田濱神社」。
この神社では、弁達者な地元の名ガイドさんから、かつて対馬にいた防人たちとモンゴル軍との死闘、思わず身震いするような武人達の獅子奮迅の大活躍の話を聞いてきました。

「防人」と言えば、必ず歴史の教科書で鎌倉時代に登場するので覚えている方も多いでしょう。当時破竹の勢いで西へ東へ覇権を広げていたモンゴル軍が日本に襲来した頃、国を守る為に3年間の任期で九州北部に配置された守備兵のことです。この防人たちは日本全国、遠くは東国(関東や東北地方)からも馳せ参じ、対馬を含む九州沿岸一帯で戦闘配置につきました。
そんな防人たちとともに日本を守る為に命をかけて戦った人々がいました。

そう、九州と朝鮮半島の間に浮かぶ「対馬」の人たちです。
モンゴル軍が襲ってきた13世紀に対馬を統治していたのは宗家でした。 宗家は12世紀から19世紀の明治維新まで断絶することなく、長らく対馬を治めた藩主です。元寇や戦国時代の朝鮮出兵時には先頭に立って戦い、時には対朝鮮外交の窓口となり、難しい交渉や折衝を担って幕府の信頼を得ていました。
そして時は1274年。
兵3万人を満載した軍船900隻が対馬の沖合に現れました。
蒙古軍襲来の知らせを聞いた時の当主、宗助国は68才。
老将は迷うことなく80騎兵を従えて一目散で西岸の佐須浦へ向かい、ひるむことなく大軍を相手に奮戦し、全員が討ち死にしました。
蒙古軍との壮絶な戦いを物語るかのように、助国の亡骸を納めた墓は、首塚や手足塚、胴塚、果ては太刀塚など小茂田浜神社周辺に散らばっています。 小茂田浜神社は軍神となった助国以下、元寇で戦死した武士達の霊を祀っています。
蒙古の大軍が押し寄せた神社の裏、佐須浦を歩いてみました。
海岸は埋め立てられ、今は美しい浜辺になっています。

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<1274年、兵3万人を満載した軍船900隻が現れた佐須浦>

海開き前の初夏だったので、まだ人っ子一人おらず、ここで大軍が押し寄せ死闘を繰り広げたことなど全く想像できないほど平和な時間を感じました。 波風なく、静寂に包まれた美しい浜。
穏やかな午後の日差しが印象的でした。
現在でも毎年11月12日には、士族の末裔が鎧に身をかためて小茂田浜に集い、恐ろしい元寇を記憶に留め後世に伝える大祭が続いています。 鎧武者を先頭にした「武者行列」が佐須浦の浜まで練り歩き、蒙古軍を迎え打った時と同じく、海に向かって矢を構える「鳴弦の儀」と呼ばれる、弓射りが行われます。
実は、この対馬を長らく治めた宗氏は現在まで脈々と続いており、現当主であり、宗氏の末裔の方が毎年このお祭りの時期に対馬を訪れているそうです。 海に向かって武士大将役が「エイエイ」と采配を振るうと武士たちが太鼓を叩き「オーオー」と呼応する姿にかつての老将、助国の姿を見たような気がしました。(上田)

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