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2018年12月

2018年12月27日 (木)

微笑みの国、タイのお祭りいろいろ

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<スリンの象祭り>

先月、「タイ大周遊 10日間」より帰国しました。タイと言えば、、、
自然が豊かで楽園のようなビーチリゾート他、アユタヤやスコータイなどの遺跡もあります。そして、辛い・甘い・酸っぱいの見事なマッチングで一度食べたらやみ付きのタイ料理。と、さすがは世界の人気観光国トップ10の常連国。これだけでも充分過ぎるのに、タイは1年を通してタイ各地でお祭りやイベントが盛り沢山。だからお祭り付は満足度プラスαなのです。

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<コムローイ祭り>

今回私達が訪れたお祭りはチェンマイのコムローイ祭りと、スリンの象祭りでした。コムローイはタイ北部で伝承されている伝統行事で、和紙で出来たランタンを夜空に向かって願いをこめ放ちます。空いっぱいに浮かび上がる様は幻想的。一瞬別世界にきたようでした。

そしてスリンの象祭りはと言うと、この地域には昔から象を飼っているクイ族が住んでいて、毎年、象祭りのこの時期には、多くの象が出稼ぎなどから帰ってきて1年で一番の賑わいを見せます。
広いスタジアムでは、その年にスリンで産まれた象の赤ちゃんの紹介から昔の象狩りのシーン、象さんによる華麗?なダンスや風船割り、絵描き、綱引きやサッカーと、これでもかっ、と言うほど頑張っていた象達。まさかこれ程まで芸達者だとは。
彼らの頑張りには理由もあります。昔、ある時は他の国と戦争になれば象は戦車のような役割をし、戦場に駆り出され、またある時は森林伐採などの林業に携わってきた象だが、自然破壊になる森林伐採は禁止され、以前はどこでも歩く事が出来た道路も今ではずっと少なくなってしまいました。そんな象が生きていく道、その一つが観光業。気性が荒く、人に懐く事のないアフリカ象と違い、昔から人と共存してきたタイの象、そして象使いとの絆は見ている側にもしっかり感じ取る事が出来ました。

お祭り前の象との触れ合いタイム。スタジアムの外に象使いと一緒にいる象にエサをやったり、鼻に乗せてもらったり、一緒に写真を撮ったりすることが出来ます。エサをあげると、手にその長~い鼻を上手に絡ませエサを取っていきます。鼻の産毛も象のものともなると硬くて何か違和感を感じずにはいられないませんでしたが、不思議と大きな体に怖さはなく、優しい瞳に安心感を覚えました。微笑みの国と形容されるタイ。微笑むタイ人への言葉でもあるのですが、訪れた人も、タイから微笑みや安らぎを貰っている気がしました。

2018年も残り僅か。今年も大変お世話になりました。皆様も海外で?日本で?よいお年をお迎えください。そして来年もどうぞ宜しくお願い致します。タイで貰った優しい気持ちを持って今年最後の添乗に行ってまいります。(岩間)


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2018年12月25日 (火)

ヴァチカン市国で芸術三昧

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<ラファエロ キリストの変容>

メリークリスマス!今年もクリスマスがやってきました。日本では恋人のイベントのイメージが強くなっていますが、本場のクリスマスは家族でイエス・キリストの誕生をお祝いする静かな日です。
先月、添乗で行ってきたローマでも街中でクリスマスの準備始まっていました。
今回はローマ滞在ツアーで、世界最小の国家ヴァチカン市国にもたっぷり一日かけて観光しました。キリスト教の総本山であるヴァチカン市国。ミケランジェロとラファエロがその建築に携わったというだけでも豪華ですが、その内部には歴代ローマ法王を魅了したコレクションが一挙にあつまり、世界のどの博物館にも負けないコレクションを誇ります。展示通路だけでも7キロもある施設で日本語名ではヴァチカン博物館となっておりますが様々な美術館、博物館の複合施設です。博物館の入り口にはミケランジェロとラファエロの彫刻がお出迎え。全ての人を受け入れるというヴァチカンの指針の為入国審査はありません。今回は一日かけての観光だったので、美術館エリアもじっくりと観光できました。ピナコテーカ(絵画館)、ピオ・クレメンティーノ美術館にはローマ時代からの美術品がたくさん並びどこを見ても至宝ばかり。ピナコテーカでの見所はやはりラファエロの「キリストの変容」。一番大きな部屋の真ん中に飾られ、誰もが足を止めて見てしまう存在感のある絵でした。また、ダヴィンチやカラヴァッジョのコレクションもあります。そして、古代のローマ時代の彫刻のある、ピオ・クレメンティーノ美術館では大理石でできていることを忘れてしまうほどの、完成度で紀元前の作品とは思えないものばかり。その後、豪華絢爛な地図の間やラファエロの間を通って、システィーナ礼拝堂に続きます。どこを見ても素晴らしい作品ばかりで、国自体が世界遺産となっていることも納得!
また、サンピエトロ寺院の広場では、大きなモミの木が立てられ、その横には建設中のプレゼーピオ。プレゼーピオとは日本ではあまり聞きませんが、クリスマスのお祝いの装飾の一つで、キリストが生まれた馬小屋を模したものです。ヴァチカンでは毎年違う素材で作られるので、ローマ市民の楽しみになっているそうです。今年は砂の彫刻でした。クリスマスツリーはドイツ発祥、プロテスタントの習慣なので、カトリックが多いイタリアでは、プレゼーピオを飾ることが多いそう。ヴァチカンでツリーを飾り始めたのは近年になってからだそうです。飾りつけはまだだったので、これから豪華になっていくのだろうと想像。いつか、カトリックの総本山のクリスマスも一目見たいものです。(杉林)


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2018年12月20日 (木)

大文明の裏に隠された、砂漠の秘境・スーダン

先日、スーダン9日間のツアーより帰国しました。
スーダンに行ったと言うと「どこにあるの?」と聞かれるのですが、
アフリカ大陸の北東、エジプトのすぐ南にスーダンがあります。

エチオピアとウガンダの源流から流れるナイル河が、
スーダンの首都・ハルツームで合流し、エジプトへ流れていきます。
それぞれ白ナイル、青ナイルと呼ばれていて、濁り方の違いでこの呼び名が付いたんだそう。
運が良ければ、ハルツームの合流点では青と白の色の違いがはっきり見られるそうですよ!

スーダンの北部、ナイル河流域以外には砂漠地帯が広がっています。
どこまでも続いていきそうな砂漠をハルツームから北上していくと、紀元前2000年からの文明の跡と出会えます。

そんなスーダンですが、ツアーでは「古代ヌビアの栄光を辿る」と素敵なタイトルが付いておりました。
アイーダがヌビアの女王として描かれているお話もありますね。

どんな栄光があったのかと言えば、やはりピラミッド!

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<ジュベルバルカルのピラミッド群>

古代エジプトが大きく栄えていた時代に、エジプトの南部とスーダンはヌビア地域と呼ばれ、クシュ王国が成立していました。
このクシュ王国の王たちが、エジプトをも版図に入れた時代がエジプト第25王朝です。
そんな力を持っていたクシュ王国が、エジプトの文化を活かす形で次々とピラミッドを建てました。
エジプトでピラミッド文化が廃れた後も、粛々と王や貴族の埋葬のために建て続け、数だけで言えばエジプトのピラミッドのほぼ2倍発見されています。これは驚き!

形も面白く、エジプトのものよりも急な角度で建てられているのが特徴。
太陽が昇った時に光が奥まで入り込むように、正面には門が備えられ、厳重な門が墓室を守っていたそう。
墓室はもちろん、そこまで続く通路や階段の壁にも、美しいエジプト風の壁画がびっしりと描かれました。

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<クッル遺跡 タヌトアメン王の墓>

やはり風化防止のために今後見られなくなる可能性もあるのですが、
今この時に見ることができてラッキーだなあと思うばかりです。

まだ都市開発も観光地整備も進んでいなく、街にレストランがない?というびっくり体験も異文化ならでは。
ガイドブックもまだ発売されていない未知の国。貴重な体験をできた気分です。(三好)


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2018年12月18日 (火)

ネパールの名峰を空から見学!

先日、「ネパール、ヒマラヤを望むリゾートホテルとエベレスト・アンナプルナ二大遊覧飛行」のツアーから帰国しました。

インド、ネパール、パキスタン、ブータン、中国に跨るヒマラヤ山脈。ヒマラヤとは「雪の住みか」を意味する言葉で、7,000m以上の山々が連なるヒマラヤ山脈はその名の通り、雪と氷で白く染まっています。その中でも最高峰がエベレスト、標高8,848m。「エベレスト」とは元々ジョージ・エベレストというイギリス人の名前から因んでつけられた名前ですが、ネパールでは「サガルマータ(海の頭)」という名で呼ばれています。チベットでの名前は「チョモランマ(世界の母なる女神)」です。今回のツアーでは、このエベレストともう一つ、同じヒマラヤ山脈の豊穣の女神の名を持つ、アンナプルナの二つの山を空から見学しました。

ネパールに到着した翌日、早速エベレストの遊覧飛行へ。遊覧飛行は天候次第で飛ぶか飛ばないかが決まりますが、今回は快晴!カトマンズ空港から10分少々飛んだところでヒマラヤ山脈が見えてきました。晴れ渡る空に向かって白く氷雪がかかった山が突き刺さるように並ぶその景色は圧巻で、窓から目が離せません。しばらくすると、CAさんに案内され一人ずつコックピットへ入ると、正面の窓の先にはエベレストが!飛行機のコックピットに入ることも滅多にない経験でしたが、エベレストに目を奪われ、めったに見られないコックピットはあまり記憶に残らず自分の席に戻りました。20分程で飛行機は旋回し、全体で一時間弱の遊覧飛行でしたが、眼前に広がったヒマラヤの景色は今も脳裏に焼き付いています。その後、カトマンズの観光をして、次はアンナプルナがよく見えるポカラへ。

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<空から眺めたヒマラヤ山脈>

ポカラではヒマラヤ山脈が部屋から見えるヒマラヤンフロントに宿泊。屋上からは朝日に朱く染まる美しいヒマラヤ山脈も見られました。ポカラでの遊覧飛行のチャンスは2回、1回目の遊覧飛行予定日は生憎の霧で飛行機が飛びませんでしたが、翌日は晴れ、遊覧飛行へ。魚の形に見えるマチャプチャレなどを見ながらアンナプルナへ近づきました。アンナプルナは4峰の山があり、最も標高が高いアンナプルナ第1峰は8,091m。アンナプルナは8,000m超えの山の中で初めて登頂された山で、同時に最も登山中に死亡する確率が高い山だそうです。なんと登山者の約4割が命を落とすのだとか。実際に見てみたアンナプルナは荘厳で神秘的で、どこか心惹かれ、命を懸けて山頂を目指す登山家の気持ちが少しわかるような気がしました。

山の魅力と人を惹きつける魔力を空と地から感じられた9日間でした。(永田)


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2018年12月13日 (木)

サルディーニャ島のタロス遺跡で折り重なる歴史を目撃!(イタリア)

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<タロス遺跡/サルディーニャ島>

遺跡観光というと、まず、ギリシャ遺跡なのかローマ遺跡なのかなど、それを築いた文明はどこかが気になるところですが、タロス遺跡はサルディーニャ独自の先史文明であるヌラーゲ文明、そしてフェニキア文明、ローマ文明が時代は違えど同じ場所に都市を築いたというユニークな経歴の持ち主。

そのため、例えばフェニキアの井戸があったかと思えばすぐ隣にローマの水道橋が走っていた跡があったり、大通りの石畳を見ても、きっちりと平らにならされたローマ人の几帳面な石畳が剥がれたところからは、丸石を無造作に並べたフェニキア時代の石畳が顔を出していたり。そんな複数の時代を見比べることができるため、さながら野外博物館のようです。

タロス遺跡が長い歴史を通して多くの文明に重用された大きな理由は、この遺跡の立地にあると思われます。タロス遺跡はシニス半島の先端のサン・マルコ岬にあり、遺跡の東西が海に面しているため非常に海運の便が良いのです。東西どちらから風が吹いても海に出ることができるため、特に海洋民族であるフェニキア人はこの点を重要視したようです。

海に面した斜面に建てられている町には巨大な神殿がありましたが、これもかつては入港した異邦人たちを圧倒したに違いありません。また、かつての町の歩行者道路だったと言われる商店街ではローマ時代の店舗の跡を見ることができます。引き戸の戸袋が掘られた石の隣は、店に出入りした人々によって踏みならされ、中央が丸く擦り減った敷居の石がありました。波の音に紛れて、束の間ローマの喧騒が聞こえたような錯覚に陥るほど、当時の生活の跡が随所に残る遺跡です。

遺跡ファンの皆さまには、後悔のない訪問になること請け合いです。ぜひ訪問リストに加えてくださいね。(松永華)


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2018年12月11日 (火)

ガンジス川の夜明け(インド)

先日「魅惑の北インド周遊と宮殿ホテル9日間」のツアーから帰国しました。デリー、ジャイプール、アグラのゴールデントライアングルに加え、カジュラホやヒンドゥー教の最大の聖地「ベナレス」に訪れました。

ベナレスには、インドの母なる大河ガンジスが流れています。ヒンドゥー教では、ガンジス川の聖なる水で沐浴すれば全ての罪が浄められ、遺灰を川に流せば輪廻から解脱でき、幸福が得られると考えられています。

ベナレスはイスラム教徒から何度も攻撃を受け、現在のガード(沐浴場)の光景はムガル帝国が弱体しヒンドゥー教であるベナレスの藩王が権力を持った18世紀になってからのものです。

ガンジス川には84ものガード(沐浴場)が並んでいて、ネパールや南インドなど様々なところから巡礼で訪れた人であふれていました。早朝、路上には、喜捨を求める人たち、花売りの女性、祈りの準備をする人が溢れており、昼や夜とは異なった雰囲気が味わえます。

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<ベナレス ガンジス川>

私たちは、ダシャ―シュワメード・ガ―ドという岸の中心で最も賑わいのあるガードから手漕ぎボートに乗り北上しました。熱心に沐浴している人たちを始め、マハラジャの宮殿だったホテルや南インドの巡礼者で集まるカラフルなガード(南インドの人達はカラフルなサリーを着ている)、洗濯をするカーストのドビーと呼ばれる人たち等ボートから様々なものが見られました。

ガンジス川では毎日火葬が行われていて、マニカルニカー・ガードは大きな火葬場でその煙は24時間途絶えません。子どもや出家した人たちは、火葬されずにそのまま川に流されます。子どもはまだ十分な人生経験をしてない為、出家した人は人生を超越してるからだと言われています。

そして、なんといってもガンジス川からみる朝日は特別です。霧の中真っ赤な太陽がぽっと浮かび、ガンジス川を赤く染めていきます。何時間でも母なる大河ガンジス川を眺めていたい、そんな気分にさせてくれます。(南雲)
 
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<ガンジス川 朝日>


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2018年12月 6日 (木)

ナセル湖クルーズにて、隠れた名所を見学(エジプト)

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<オマール・カイヤーム号>

先日、「ナセル湖からナイル河へ エジプト古代遺跡めぐり 12日間」のツアーより帰国致しました。
さて、ナセル湖とは?ナイル河の氾濫防止と灌漑用水確保のためにアスワンダムが造営されましたが(1901年完成)、その後、エジプトの急速な人口増加に対応できなくなり、1960年、当時のナセル大統領が旧ソ連の支援を受け、国家事業としてアスワンダムの上流6.4km地点にアスワンハイダムの建設を開始し、1971年に高さ111m、長さ3830m、上部の幅40m、基底部の幅980mという巨大なダムが完成しました。またそのダムの巨大な貯水池としてできたのがナセル湖で、その面積は5250平方km(琵琶湖の7.8倍)あります。
そして、そのアスワンハイダム建設計画により、アブシンベル神殿が水没の危機にさらされましたが、ユネスコが呼びかけたヌビア遺跡救済国際キャンペーンが世界的な動きに発展し、1964年から4年の歳月をかけて、神殿を1042個のブロックに解体し、もとの位置より64mも高い現在の場所へ移築されたのは有名な話です。しかし、実はアブシンベル神殿以外にも移築された遺跡があることは意外と知られていません。当ツアーではアブシンベルからアスワンまで、3泊4日かけてクルーズ船「オマール・カイヤーム号」にてナセル湖畔のヌビア遺跡をめぐります(ヌビアとは、アスワンからアブシンベル、さらに南のスーダンにかけての地方の名称)。

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<アブシンベル大神殿&小神殿>

個人的に印象的だった遺跡は3つありましたが、まずはアブシンベル。実は私自身アブシンベルは何回も訪れていますが、今回は船のデッキから見学することができました。やはり少し離れたところから見るので、大神殿と小神殿を1枚の写真の中に収めることができます。2つ目はカスル・イブリーム遺跡で、ここだけは高台にあったため唯一水没を免れた遺跡です。現在は湖の中にある小島になっていますので、下船できずデッキからの見学となりましたが、かつては半島だったとのこと。そして最後はラムセス2世治世55年を記念して建てられた「獅子の谷」の意をもつワディ・エル・セブア神殿です。入口の手前にスフィンクス参道が残っていますが、ラムセス2世の顔を持つ人面スフィンクスと、おそらくここでしか見ることができないであろうはやぶさの顔(=ラーホルアクティ神)を持つスフィンクスも建っていました。

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<カスル・イブリーム遺跡>

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<はやぶさ顔のスフィンクス>

エジプトのクルーズと言えばナイル河(アスワン~ルクソール)が有名で、クルーズ船も200隻以上あると言われていますが、それに対し、ナセル湖のクルーズ船は未だ7隻のみ。治安も回復し、昨年あたりから世界各国から観光客が戻ってきましたので、今後、ナセル湖畔のヌビア遺跡群も隠れた名所として人気が上昇し、ナセル湖クルーズ船もどんどん造船される、そんな気がしてなりません。(斉藤信)


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2018年12月 4日 (火)

フォトジェニックな青の街 シャウエン(モロッコ)

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<シャウエン旧市街>

先日、「モロッコ大周遊と幻想のサハラ砂漠 14日間」の添乗より帰国しました。モロッコの首都ラバトから観光がスタートし、沿岸地域、山脈を越え砂漠地帯へ。サハラ砂漠の星空と日の出を楽しんだ後、峠を越えて大都市マラケシュを訪問、そしてまた沿岸地域へと戻ってきました。モロッコの様々な顔が見られる旅でした。その中でも近年、日本でも有名になってきたシャウエンの街をご紹介します。

リーフ山脈の中腹に位置するシャウエン(正式名称:シャフシャウエン)の旧市街では、家の壁や道路、階段、水飲み場などすべてが淡い水色から深い青色まで、さまざまな青で塗られています。

シャウエンはポルトガルの侵攻を阻止するため、1471年にシディ・アリ・ベン・ラシッドにより建設され、15世紀から17世紀には、レコンキスタでスペインを追われモロッコにたどり着いたユダヤ人やイスラム教徒が定住、繁栄してきた街です。

壁が青く塗られている理由には諸説あります。

青色が虫よけになるという説。夏の暑さを和らげるという説。そして最も有力なのは、移住してきたユダヤ教徒の人々が「平和の象徴」としてユダヤ人の聖なる色である青で街を塗ったのが始まりで、イスラエルが建国されるとシャウエンにいたユダヤ人のほとんどはイスラエルへと移住していきましたが、街を青色に染める習慣だけが残ったという説です。

いずれにせよ、旧市街に足を踏み入れた瞬間に広がる真っ青な世界は息をのむ美しさ!太陽の光の加減によっても青色の印象が変化します。

また、夜のシャウエンは昼間とは全く違った表情を見せました。

昼間は観光客で賑わっていた街も夜になると一変、現地の人々が大勢街へ繰り出していました。屋台で食事をしたり、カスバ(城塞)の前でパフォーマンスをしていたり。特に印象的だったのは、日本のお通夜ともいうべき儀式が行われていたことです。人が亡くなると親族、友人が集まって歌を歌い、食事を共にし、夜を過ごすそうです。彼らの生活の一部を垣間見ることができた貴重な体験でした。(豊田)


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