2018年11月22日 (木)

熊野古道小辺路を歩いて思う(奈良県・和歌山県)

先日、「語り部とゆく、熊野古道小辺路、果無越えと大峯奥駈道3日間」より戻りました。

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<果無集落世界遺産碑>

熊野古道はいくつかありますが、私たちは「小辺路」と呼ばれる高野山から熊野本宮大社に至る全長72kmの街道の一部を歩きました。歩いたのは、街道の終盤、果無峠越えの部分で、世界遺産の参詣道が通る天空の郷「果無集落」の観光用ポスターで一躍有名になった村を通るルートです。

天空の郷に至るまでの道は、麓の十津川からひたすら急な坂道、石畳、階段を上って標高を600m一気に上ります。森の中を歩きますが、果無村に近づくと視界が開け、視線の先には谷を挟んで果無山系 の山々の連なりを望むことができます。
果無集落では、古道沿いの個人宅の縁側が古道を歩く人の憩いの場としてご厚意で一般に解放されていて、腰を下ろして一息つくことができます。その向かいには、丸太をくりぬいて作られた水受けが印象的な湧き水を飲めるのも嬉しい心遣いです。
その後の行程は、再び果無峠に向けて標高をあげて行き、今度はひたすら熊野本宮大社に向けて下っていきます。その標高差は約1000m。ほとんどが森の中の道ですが、途中途中で視界が開け絶景を楽しめるというメリハリのあるルートでした。

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<果無集落にて>

この険しい小辺路は、1000m級の3つの峠を越える道であったものの、高野山から熊野本宮大社間を最短距離で往来できる道として、多くの庶民の参詣者たちが通りました。私たちは山道に適した靴を履き、重ね着ができ、1日分の荷物を持つだけでよいという装備で歩くことができましたが、中世の人が同じ道を着物と草履で歩いたというのは想像できないほど困難だったと思います。それでも「蟻の熊野詣で」といわれるほど庶民の間でも熊野詣が盛んであったというのは驚くとともに、人気のほどがうかがえます。

明治維新後、神仏分離令により熊野詣の風習も殆どなくなりましたが、熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけられました。小辺路のほとんどの部分が通る奈良県の十津川村は鉄道を敷けないほど山深い地であったため、街道沿いには未だ豊かな自然が手つかずのまま残されています。熊野詣の往時の様子を偲べる絶好の場所です。(大久保)


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2018年10月 6日 (土)

元寇から日本を救った英雄!その名も「助国」さんの物語(長崎の壱岐・対馬の旅)

先日、「魏志倭人伝が息づく島・壱岐と防人の島・対馬 4日間」のツアーに行ってきました。
壱岐、対馬はかつて大陸(朝鮮半島)との交易の中継地だったが故にさまざまな人々が往来し、歴史が刻まれ、それだけに観光名所や見どころが想像以上に多い島でした。
今回の旅では、古墳~飛鳥時代の「古墳群」や弥生時代の集落と水田跡の「原の辻遺跡」、わずか50キロ先の対岸に韓国の釜山を望む「韓国展望所」、幻となった「ツシマヤマネコ」など様々な観光地を回り巡ってきました。
今日は壱岐対馬の旅で私が最も衝撃を受けた「防人」の話をご紹介します。

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<元弘で討死した兵士を祀った小茂田濱神社>

旅の終盤で立ち寄った対馬、南西部海岸にある「小茂田濱神社」。
この神社では、弁達者な地元の名ガイドさんから、かつて対馬にいた防人たちとモンゴル軍との死闘、思わず身震いするような武人達の獅子奮迅の大活躍の話を聞いてきました。

「防人」と言えば、必ず歴史の教科書で鎌倉時代に登場するので覚えている方も多いでしょう。当時破竹の勢いで西へ東へ覇権を広げていたモンゴル軍が日本に襲来した頃、国を守る為に3年間の任期で九州北部に配置された守備兵のことです。この防人たちは日本全国、遠くは東国(関東や東北地方)からも馳せ参じ、対馬を含む九州沿岸一帯で戦闘配置につきました。
そんな防人たちとともに日本を守る為に命をかけて戦った人々がいました。

そう、九州と朝鮮半島の間に浮かぶ「対馬」の人たちです。
モンゴル軍が襲ってきた13世紀に対馬を統治していたのは宗家でした。 宗家は12世紀から19世紀の明治維新まで断絶することなく、長らく対馬を治めた藩主です。元寇や戦国時代の朝鮮出兵時には先頭に立って戦い、時には対朝鮮外交の窓口となり、難しい交渉や折衝を担って幕府の信頼を得ていました。
そして時は1274年。
兵3万人を満載した軍船900隻が対馬の沖合に現れました。
蒙古軍襲来の知らせを聞いた時の当主、宗助国は68才。
老将は迷うことなく80騎兵を従えて一目散で西岸の佐須浦へ向かい、ひるむことなく大軍を相手に奮戦し、全員が討ち死にしました。
蒙古軍との壮絶な戦いを物語るかのように、助国の亡骸を納めた墓は、首塚や手足塚、胴塚、果ては太刀塚など小茂田浜神社周辺に散らばっています。 小茂田浜神社は軍神となった助国以下、元寇で戦死した武士達の霊を祀っています。
蒙古の大軍が押し寄せた神社の裏、佐須浦を歩いてみました。
海岸は埋め立てられ、今は美しい浜辺になっています。

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<1274年、兵3万人を満載した軍船900隻が現れた佐須浦>

海開き前の初夏だったので、まだ人っ子一人おらず、ここで大軍が押し寄せ死闘を繰り広げたことなど全く想像できないほど平和な時間を感じました。 波風なく、静寂に包まれた美しい浜。
穏やかな午後の日差しが印象的でした。
現在でも毎年11月12日には、士族の末裔が鎧に身をかためて小茂田浜に集い、恐ろしい元寇を記憶に留め後世に伝える大祭が続いています。 鎧武者を先頭にした「武者行列」が佐須浦の浜まで練り歩き、蒙古軍を迎え打った時と同じく、海に向かって矢を構える「鳴弦の儀」と呼ばれる、弓射りが行われます。
実は、この対馬を長らく治めた宗氏は現在まで脈々と続いており、現当主であり、宗氏の末裔の方が毎年このお祭りの時期に対馬を訪れているそうです。 海に向かって武士大将役が「エイエイ」と采配を振るうと武士たちが太鼓を叩き「オーオー」と呼応する姿にかつての老将、助国の姿を見たような気がしました。(上田)

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2018年6月21日 (木)

ひむかの国で個性豊かな日本神話の神様たちに出会う

この度、ユーラシア旅行社の「日本神話の舞台とひむか神話街道を歩く4日間」より戻りました。  

霧島神宮


旅のスタートは晴天に恵まれ熊本空港から宮崎県の高千穂に向かう途中、新緑美しい阿蘇山の外輪山、内輪山を左右に眺めながらのドライブを楽しめました。宮崎県では高千穂と宮崎市に滞在し、ひむか神話街道沿線の神様ゆかりの地を巡りました。最後は神武天皇ゆかりの霧島六社権現の神社を巡って鹿児島から九州を出るという充実の4日間の旅です。
宮崎県は「神話と伝説のふるさと」と言われています。ひむか神話街道の「ひむか」とは「日の向かう地」という意味で、日本の夜明けのような意味があります。現在も日向(ひゅうが)という地名が残っていますが、昔からこの辺りは「ひむか」と呼ばれていたそうです。
 
日本神話の代表的な物で、太陽の神様・天照大神(アマテラスオオミカミ)が、須佐之男命(スサノオノミコト)のいたずらに怒って岩戸に隠れてしまい、世界が暗くなってしまったという話があります。

天安河原

高千穂で、その物語の舞台となった天岩戸神社と天安河原を訪ねました。
天岩戸神社では神職の方にお願いして、本殿の裏手側の聖域に案内して頂きました。神社の裏の崖を隔てた向こうの山(ご本尊)を眺めました。ここは昔から人が立ち入ってはならない神の領域。地元の人もずっとその言い伝えを守っているそうです。 その鬱蒼と茂った木々の一部に洞窟のようなものが確認できます。神職の方の説明によると、そここそが天照大神が隠れたという場所だそうです。聖域にいる間、気のせいかもしれませんが、他とは違う何か重たいまとわりつくような不思議な空気を感じました。
  天安河原は、岩戸に隠れた天照大神をなんとか外に出すため他の神々が集まって相談した場所で、日本で最初の国会議事堂とも言われています。

神様の系図

神々があれやこれやと工夫を凝らして、やっと天照大神は岩戸から出てきたわけですが、その時活躍したのが天鈿女命(アマノウズメノミコト)です。裸になって楽しく歌って踊って、他の神々を楽しませたため、何事だろうと思った天照大神が岩戸から覗き見た時に手力男命(タヂカラヲノミコト)が引っ張り出したんだそう。
天鈿女命は日本で最初のストリッパーと言われ、また、その姿から「楽」という漢字が生まれ、伝統芸能「神楽(かぐら)」は神々が楽しんでいる様子を表現したものとも言われています。
 今回の旅では、そんな神話や逸話を他にも沢山聞く事が出来ました。これまで、神々の系図を見ても、名前を読むだけで一苦労でしたが、今回の旅を通じて、神話の世界の神々がより身近に感じられるようになりました。(関根)

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2018年4月 6日 (金)

春の瀬戸内海島めぐり、塩飽(しわく)諸島(広島・愛媛・香川県)

先日、瀬戸内海の島めぐりのツアーに行ってきました。
3月の瀬戸内海は、関東地方より一足早い春のポカポカ陽気に包まれていました。
島の田舎道をのんびり歩いていると、甘い香り漂う黄色の水仙の花が咲き、畑の畦道にポツンと佇む桜が咲き始め、 春ならではの雰囲気を感じることができました。

今回の旅では、ローカルな島々を中心に巡りました。
広島県のとびしま海道では、室町から江戸時代に朝鮮通信使の大船団が寄港した下蒲刈島から上蒲刈島へ渡り、 風待ち潮待ちの港町として賑わい、坂本龍馬が密談をした大崎下島を経て愛媛県の今治に船で渡りました。
香川県の丸亀港からは大阪城の石垣の石材供給地だった塩飽諸島(広島、本島)に渡り、 更に高松港から桃太郎伝説が残る女木島と男木島へと渡り、最後に小豆島を周遊しました。
島から島への移動は瀬戸内海の生活航路です。
土地の人々が日常使っているフェリーは生活感が感じられる一方で、デッキから紺碧の瀬戸内海と過ぎてゆく島影を眺めながら、ちょっとしたクルーズ気分も味わうことができました。

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<瀬戸内海の塩飽諸島、本島笠島まち保存地区>

特に印象に残ったのは、塩飽諸島の本島(ほんじま)散策でした。
瀬戸内海の風や潮流を知り尽くした水夫達が組織する塩飽水軍は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康からも重宝され、 島の自治を認められていたほどです。
また幕末に日米修好通商条約批准の為、太平洋を越えサンフランシスコ往復を成し遂げた咸臨丸の水夫達も塩飽諸島出身者でした。
交易で得た財力や優秀な船大工の技術は建築にも受け継がれ、 島内には江戸から明治、戦前に建てられた100棟ほどの家々が今なお残っています。
潮風に強い焼板を使った真っ黒な外壁の「なまこ壁(焼板なので炙られた板面がブツブツしている)」や 千本格子窓、虫籠窓や軒下の持ち送り装飾など熟練大工の技を駆使した見事な仕事っぷりに感心です。

びっくりしたのは島の資料館。
かつて長老達が執務していた勤番所跡には、織田信長や豊臣秀吉の朱印状がひっそりと展示されていたのには驚きでした。

今回の旅で訪れた島は全部で9だけです。
瀬戸内海にはまだ残り718の島が浮かんでいます。
人が住み、歴史が残る島はもっと少なくなるとしても、
瀬戸内海には、訪れるべき島がまだまだありそうです。(上田)

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2018年2月15日 (木)

五島列島を食べ尽くす!

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<マルゲリータホテルのイタリアンの夕食>

先日、「“祈りの島”五島列島探訪の旅 3日間」のツアーへ行って参りました。今回は、お勤めされていらっしゃる方にもご参加頂けるように、3連休を利用した新ツアーです。五島列島は、日本で最も島が多い長崎県にあり、四方八方海に囲まれていて、朝陽が昇り、夕陽が沈む場所となっており、絶景が望める島です。そんな美しい場所だからこそ、滞在先の宿も非常に重要だと思います。今回のツアーでは、五島列島の中通島にある「ホテル マルゲリータ」に宿泊致します。

元々は、国民宿舎として利用されていたのですが、2012年に海をのぞむ高台に、修道院をイメージした素敵な十字架の形をしたリゾートホテルとなり、オープンしました。上五島内には教会が29あるのですが、ホテルの部屋数も29室に合わせてあるのだそうです。景観も、施設もお部屋も素敵なのですが、何と言っても、最大の魅力は、お食事と言っても過言ではありません。食というのも旅を左右する程重要なものだと思います。ホテルは、マルゲリータという名からも分かるように、イタリアを基調にしているようです。ホテルスタッフの制服は白×紺のお洒落なボーダーTシャツで、レストランに入ると「ボンジョルノ~!」と爽やかにイタリア語で迎えてくれます。そして、夕食は2泊すると、イタリアンと和食を1日ずつ交替で提供してくれます。

甲乙つけ難いのですが、お勧めは、イタリアンかな、、と。私が宿泊した際のコースメニューの一例ですが、まず、オードブルです。大きなお皿には、旬のフルーツや魚介やお肉等の食材をふんだんに使用した3~4種が美しく盛られてきます。そして、その後、真鯛、からすみパスタ、五島牛の赤ワイン煮こみとリゾット、島檸檬ケーキ。と贅沢な全5皿 です。一皿一皿に、趣向が凝らされており芸術作品の様に美しいので、手を付けてしまうのが勿体ない程です。どのお皿も五島の旬の食材を活かしており、新鮮でかつ絶品で至福の時間が続きます。五島列島の味を堪能した後は、そのまま余韻に浸りながら眠りにつくのも良いでしょうし、ホテル内の温泉にゆっくり浸かるのも良いでしょう。

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<マルゲリータホテルの和朝食>

因みに、朝食は、和食か洋食のセットメニューを召し上がって頂いた後には、何と、オプションと言われる別メニューの中から好きなだけオーダーが出来るのです!例えば、五島うどんや、アップルパイ等多数ありますが、どれも美味しいので是非、胃に余裕がある方は、是非食べて頂きたいものです。五島列島を訪れた数日間は、思い切ってこの際周りの目を気にせず、五島の新鮮な美味しい食材を堪能する事に集中してはいかがでしょう!?(井手)

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2017年11月30日 (木)

特別開帳が目白押し!八十八面観音巡礼(奈良)

 先日、奈良県の八十八面観音を巡礼するツアーに行ってきました。「八十八面観音」と聞いて首をかしげる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはあらゆる方角を向いて私たちを厄災から守って下さる十一面観音を八体巡り、その八十八面のお顔を拝むことを意味します。「子供の十三歳・女性の三十三歳・男性の四十二歳」の厄年の合計八十八歳と同数になることから、八十八面観音巡礼をすることで、人生における全ての厄災から救われるとして信仰を集めているのです。

西大寺にて

 ところで古くから信仰されてきた観音様とは、どのような存在なのでしょうか?まず仏様を大まかに分類すると、「如来」・「菩薩」・「明王」・「天」の4グループに分けられます。「如来」は悟りを開いた方、「菩薩」は如来を目指して修行しながら人々を救う存在、「明王」は如来の変化身で悪い道に進みがちな人間の行動や心を抑制する存在、「天」とは神様のことで仏法を守護する役目を持っています。
 私たちが観音様と呼んでいるのは、「(観音)菩薩」のことで、十一面観音はその変化身のひとつです。苦しんでいる人を見つけられるよう頭の上に十一の顔があり、あらゆる方角を見守っていて修羅道でもがく者を苦しみから救って下さるのです。
 今回の旅で拝んだ中で、私が最も感激したのは聖林寺の国宝の十一面観音立像でした。なんといっても素晴らしいのは木心乾漆造の像にもかかわらず、全く固さが感じられずまるで本物の布のような天衣、しなやかな手の動き。アメリカ人の東洋美術史家フェノロサが「東洋のヴィーナス」と絶賛したというのも納得です。また、十一面観音はふくよかな女性をイメージさせる(菩薩には男女という性別はありません)像が多い中で、切れ長の目で正面を正視し、人々を導くような凛々しさがあるように私には感じられました。

聖林寺

 
 もしかしたら「仏像はどれも似ていて区別が難しい…」と思う方もいらっしゃるでしょう。私も以前はそうでした。ですが、仏像は服装や持ち物、顔の表情等それぞれに違いがあるので、一度特徴を覚えればその魅力にはまること間違いなし!普段は見ることができない秘仏が、一気に特別開帳される秋の奈良。来年はどこのお寺を見ようかな?と今から楽しみになりました。(坂田)

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2017年11月24日 (金)

私が見つけた熊野古道伊勢路、3つのキーワード(三重)

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 先日、三重県の熊野古道伊勢路を歩くツアーに行ってきました。日本書紀や古事記の神話の時代から、紀伊山地は神々が集まる神聖な場所として知られたいた場所。人々はこの熊野に極楽浄土を求めて歩いていたそうです。
 その中でも熊野古道の伊勢路は三重県の伊勢神宮から熊野までの約170kmを指し、上皇など身分が高い人が歩いた紀伊路と比べ、お伊勢参りを終えた庶民が熊野へ向かう参詣道として利用されたルートです。私たちはその庶民ルートの一部の峠越えに挑戦してきました。

そこで、その伊勢路の3日間をキーワード「石畳」「徐福」「里山」、この3つを通してご紹介したいと思います。

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■「石畳」

伊勢路の特徴は、やはり何と言っても山道に続く美しい石畳。私たちは伊勢路の中の、馬越峠、ツヅラト峠、波田須の道、3か所をハイキング。江戸時代の人たちが1日20~30キロ歩いて完歩したルートの良いとこ取り。なんと、紀伊半島東部は日本有数の多雨地域で、屋久島の次ぐらいに雨が多い場所、東京の約3倍以上。その為、山道が崩れないように舗装する為に敷き詰められたのが、この「石畳」だった訳です。古いもので鎌倉時代の石畳も残ります。「ここは籠屋がいたところ、ここは茶屋があり、ここで足を洗う洗い越し」と歩きながら語り部さんが説明してくれ、往時の情景が目に浮かぶようでした。

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■「徐福」

全国に残る徐福伝説。秦の始皇帝に命じられて「不老不死」の薬を求めてきた人物。約3千人の従者を連れて海を渡り、日本に今から2200年前に行き着いたのですから、想像を絶します。本当は始皇帝の暴君ぶりに堪えられなくなって亡命してきた説もあるそうですが、日本全国に徐福が辿りついたとされる場所が残り、ここ三重の波田須にも徐福のお墓があります。ここに到着した証拠に、当時中国で使われていた半両銭がこの辺りで出土したと語り部さんがなんと本物を見せてくれました。半信半疑になりながらも、去り際に不老不死の薬とされた「天台烏薬(テンダイウヤク)」を実はひっそりとポケットに忍ばせました。

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■「里山」

ゆっくりと林道を歩き終わると伊勢路では必ず里山が見えてきます。ちょうど10月の下旬、秋の季節だったこともあり、収穫の時期。歩いていると「どこから来なさったのか」と尋ねられ、話が弾むと、やれサツマイモ、やれ蜜柑、と収穫物をおすそ分け。観光客をも温かく迎え入れてくれました。こんなこと都内ではきっとあり得ません。また流行りのIターン転職で他県から移住して働いている若者にも多く出会い、彼らが作る地元直産蜜柑ジュースは絶品でした。普段の生活では感じない人と人との繋がりを感じた優しい空間にほっこり。

神様も仏様もいる聖地、熊野古道。神仏混淆(習合)の日本独自の宗教観が息づく、スピリチャルな紀伊半島。普段は全くもって歩かないのに、次は中辺路、小辺路の順に挑戦したい!と帰路、神は私を決意させました。(坂岸)

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2017年10月12日 (木)

これぞ日本一、秋の夜空に輝く花火

「日本三大花火、土浦全国花火競技大会と水戸探訪2日間」から戻ってまいりました。
今回の旅の目的はなんといっても土浦の花火大会です。土浦の花火大会は、長岡、大曲の花火とともに日本三大花火大会の一つに数えられています。花火といえば夏の風物詩。なぜ秋に?と思われる方も多いでしょう。それは土浦の花火大会が実りの秋を祝うという意味もあるからだそうです。
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さて、土浦の花火大会はただの花火大会ではありません。正式名称は「土浦全国競技花火大会」。つまり、全国の花火師たちが腕を競い合い、日本一を目指すのです。今回も北は北海道から南は鹿児島まで、全国津々浦々からやってきた花火師たちが渾身の93の作品を打ち上げました。
午後3時、バスを駐車場に止め、私たちは会場である桜川沿いの桟敷席を目指して歩き始めました。途中からだんだんと人も増えてきて、なかなか前に進むことができません。土手沿いの道には多くの露店が立ち並び、美味しそうな匂いが漂ってきます。一般開放の土手は席取りの人々で埋まっていました。そうした熱気に押されて我々のテンションも上がります。巨大な桟敷席にはすでに大勢の人が座り、桜川に沈む夕日を眺めながら花火大会の開始をまっていました。
真っ暗になった夜6時、ついに大会が始まりました。始めに参加する花火師たちがずらりとステージにあがり、「皆様に最高の花火をお届けすることを誓います」と高らかに宣誓しました。そう、これは花火師たちの真剣勝負なのです。観る側も気が引き締まる思いがしました。普通の花火大会と異なるのは、「●番、○○煙火工業」というように花火が打ち上げられる前に出品業者が紹介されることです。審査は「スターマイン」「10号玉」「創造花火」の3部門で行われます。日本の伝統的な花火、真円を描く10号玉も素敵ですが、なんといっても豪勢なのは「スターマイン」でしょう。2分30秒以内に2.5号玉から4号玉数百発を音楽に合せて打ち上げ、テーマ曲の世界を夜空に描き出します。まるで踊り子が舞う舞台を見ているようで、息をするのも忘れて見入ってしまいました。素晴らしい作品には歓声があがり、打ち終わったあと、自然と大きな拍手が沸き起こりました。
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さて、花火大会のお楽しみの一つは、ワイドスターマイン「土浦花火づくし」です。競技作品ではありませんが、大会の中盤の約6分間、息をつく間もなく花火が打ちあがり、視界に入る夜空の全てが花火で覆われます。まさに圧巻の一言でした。
 余韻に浸りながらの帰り道は、行きよりも短く感じました。一瞬で消える花火に精魂傾ける花火師たちの情熱にふれたひと時でした。(大西)

土浦花火大会のツアーは2018年3月頃に発表予定です。
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2017年9月21日 (木)

これぞ三河の粋!“炎の祭典”手筒花火(国内旅行)

先日、9月9日発「豊橋“炎の祭典”手筒花火と井伊家ゆかりの地へ 2日間」より戻りました。この度のメインは何と言っても、450年以上もの歴史を持つ、豊橋の手筒花火見学です。手筒花火と聞いてもピンとこない方も多くいらっしゃると思いますが、手筒花火とは直径10cm、長さ約80cmの竹の中には火薬を敷き詰めて揚げる吹上花火のことです。打ち上げ花火との違いは、その火柱!何と10m以上もの火柱が吹き上げます。大きいものでは、筒の直径30cmにも及び、その火柱の高さといったら圧巻の一言。手筒花火は、愛知県豊橋市の吉田神社が発祥の地といわれ、かつてこの地を治めた徳川家康が三河衆に火薬の製造を任せたことに由来すると言われています。
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今回はそんな手筒花火が盛んな豊橋にて開催される手筒花火を中心とした花火大会“炎の祭典”を見学しました。隅田川花火大会などの都内で開催される大きな花火大会とは異なり、そこまでの来場者を想定していなかった私ですが、いざ会場に到着すると、地元の方々だけでなく、東西南北、全国各地から手筒花火を一目見ようと集結していました。会場は豊橋公園内の球場、外野席から内野席、さらにはグラウンド内に特設されたアリーナ席まで、空席はほとんどない程の賑わい。
そしていよいよ花火大会の開始!手筒花火を持った人々が横一列に並び、合図とともに点火。すると、次々と火柱が吹き上がります。打つ上げ花火とは違い、手筒花火は筒を持ったまま、火をつけ、吹き上がっている間もずっと人の手に抱えられています。火花が降り注いでくるのも構わず、ボーンっという吹上の終わりを告げる音が聞こえるまで、持ち手は片時も筒を手放すことはできません。とてつもなく熱いであろう火花に耐え、それでも一直線に火柱を上げ続ける持ち手の方々に、三河の粋を感じました。
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豊橋の手筒花火は、“炎の祭典”だけではなく、4月から10月にかけて豊橋市内各地で開催されます。豊橋を訪れる機会があれば、三河の粋を感じてみてください。(吉村)
豊橋“炎の祭典”を訪れるコースは2018年2月頃に発表予定です。
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2017年8月16日 (水)

一千年もの歴史!雅な世界観にうっとり。(京都、祇園祭)

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先日、「京都祇園祭、宵山・山鉾巡行と貴船の川床料理 3日間」の添乗より戻りました。毎年7月、ひと月に渡って神事、行事が行われる京都の祇園祭。中でも最大の見どころである山鉾巡行は、京都や関西方面にお住まいの方でなくともテレビのニュースなどで見かけたことがある方も多いはず。伝統に従い巡行は前祭り(さきまつり)、後祭り(あとまつり)の2回に分けて行われますが、今回は、巡行の3日前まで行われる「宵山」と「前祭り」をたっぷり楽しみました。

祇園祭の歴史は一千年以上も前、869年に全国的に疫病が流行した為、鉾を立て神輿を送って疫病退散を祈願したのが始まりとされています。時が経つにつれ、山鉾の数、そしてその装飾が豪華に付け加えられていきます。長い歴史の中では、応仁の乱や太平洋戦争などで祭りが中止されたり、火災の被害を受けた山鉾も数々ありましたが、その度に山鉾を有する町の人々の手によって祭りは継続されてきました。

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朝、余裕をもってホテルを出発し御池通りに設置された有料観覧席に到着!やがて、遠くから、お囃子が響いてきました。地元の方によると、その音は「コンチキチン」と聞こえるそうですが、私には言葉には言い表せられない、とても優雅な音色に聞こえました。一番鉾である、先頭の「長刀鉾」がゆっくりと進んできます。目の前に迫った時は、その美しい装飾、精緻な彫刻やエキゾチックな絨毯に目が釘付け。そして、よく見ると総勢20もの囃子方が乗る鉾の中央ではお稚児さんが舞っているではありませんか!今では、お稚児さんが乗るのはこの長刀鉾だけ。(人形の所もある)年毎に、選ばれたお稚児さんは神の代わりとして祭りの期間は様々な決め事があるそうです。大工方から囃子方、引手まで、沢山の人がこの日に向けてどれだけ準備してきたのだろうかと想像します。町によって、山鉾が異なるように、着物や持ち物、お囃子も異なります。そのような山鉾以外の違いも見ていると飽きません。

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こうして、最後の「大船鉾」まで、23基もの山鉾が2時間以上かけて通りゆく絢爛豪華な姿を目の当たりにし、暑さも忘れ夢中になって見入りました。京都府警の発表によると、今年は昨年より3万人多い22万人の人出だったそうです。ツアーでは観覧席で見学しましたので、混乱なく巡行を楽しむ事ができました。前日の夜は宵山で賑わう町を散策しました。ちょうちんに明かりが灯った山鉾も粋なものです。また、山鉾の周りや会所ではその町内の子供たちが粽などを声を張り上げて売っており祭りムードを盛り上げていました。日本三大祭りの一つであり、これ程の長い歴史を誇るこの大きな祭りが私たちの心を惹きつけるは、誇りを持って山鉾に携わる多くの地元の人々によって大切に受け継がれ支えられているからなのだと実感しました。(帯津)

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