2017年11月30日 (木)

特別開帳が目白押し!八十八面観音巡礼(奈良)

 先日、奈良県の八十八面観音を巡礼するツアーに行ってきました。「八十八面観音」と聞いて首をかしげる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはあらゆる方角を向いて私たちを厄災から守って下さる十一面観音を八体巡り、その八十八面のお顔を拝むことを意味します。「子供の十三歳・女性の三十三歳・男性の四十二歳」の厄年の合計八十八歳と同数になることから、八十八面観音巡礼をすることで、人生における全ての厄災から救われるとして信仰を集めているのです。

西大寺にて

 ところで古くから信仰されてきた観音様とは、どのような存在なのでしょうか?まず仏様を大まかに分類すると、「如来」・「菩薩」・「明王」・「天」の4グループに分けられます。「如来」は悟りを開いた方、「菩薩」は如来を目指して修行しながら人々を救う存在、「明王」は如来の変化身で悪い道に進みがちな人間の行動や心を抑制する存在、「天」とは神様のことで仏法を守護する役目を持っています。
 私たちが観音様と呼んでいるのは、「(観音)菩薩」のことで、十一面観音はその変化身のひとつです。苦しんでいる人を見つけられるよう頭の上に十一の顔があり、あらゆる方角を見守っていて修羅道でもがく者を苦しみから救って下さるのです。
 今回の旅で拝んだ中で、私が最も感激したのは聖林寺の国宝の十一面観音立像でした。なんといっても素晴らしいのは木心乾漆造の像にもかかわらず、全く固さが感じられずまるで本物の布のような天衣、しなやかな手の動き。アメリカ人の東洋美術史家フェノロサが「東洋のヴィーナス」と絶賛したというのも納得です。また、十一面観音はふくよかな女性をイメージさせる(菩薩には男女という性別はありません)像が多い中で、切れ長の目で正面を正視し、人々を導くような凛々しさがあるように私には感じられました。

聖林寺

 
 もしかしたら「仏像はどれも似ていて区別が難しい…」と思う方もいらっしゃるでしょう。私も以前はそうでした。ですが、仏像は服装や持ち物、顔の表情等それぞれに違いがあるので、一度特徴を覚えればその魅力にはまること間違いなし!普段は見ることができない秘仏が、一気に特別開帳される秋の奈良。来年はどこのお寺を見ようかな?と今から楽しみになりました。(坂田)

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2017年11月24日 (金)

私が見つけた熊野古道伊勢路、3つのキーワード(三重)

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 先日、三重県の熊野古道伊勢路を歩くツアーに行ってきました。日本書紀や古事記の神話の時代から、紀伊山地は神々が集まる神聖な場所として知られたいた場所。人々はこの熊野に極楽浄土を求めて歩いていたそうです。
 その中でも熊野古道の伊勢路は三重県の伊勢神宮から熊野までの約170kmを指し、上皇など身分が高い人が歩いた紀伊路と比べ、お伊勢参りを終えた庶民が熊野へ向かう参詣道として利用されたルートです。私たちはその庶民ルートの一部の峠越えに挑戦してきました。

そこで、その伊勢路の3日間をキーワード「石畳」「徐福」「里山」、この3つを通してご紹介したいと思います。

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■「石畳」

伊勢路の特徴は、やはり何と言っても山道に続く美しい石畳。私たちは伊勢路の中の、馬越峠、ツヅラト峠、波田須の道、3か所をハイキング。江戸時代の人たちが1日20~30キロ歩いて完歩したルートの良いとこ取り。なんと、紀伊半島東部は日本有数の多雨地域で、屋久島の次ぐらいに雨が多い場所、東京の約3倍以上。その為、山道が崩れないように舗装する為に敷き詰められたのが、この「石畳」だった訳です。古いもので鎌倉時代の石畳も残ります。「ここは籠屋がいたところ、ここは茶屋があり、ここで足を洗う洗い越し」と歩きながら語り部さんが説明してくれ、往時の情景が目に浮かぶようでした。

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■「徐福」

全国に残る徐福伝説。秦の始皇帝に命じられて「不老不死」の薬を求めてきた人物。約3千人の従者を連れて海を渡り、日本に今から2200年前に行き着いたのですから、想像を絶します。本当は始皇帝の暴君ぶりに堪えられなくなって亡命してきた説もあるそうですが、日本全国に徐福が辿りついたとされる場所が残り、ここ三重の波田須にも徐福のお墓があります。ここに到着した証拠に、当時中国で使われていた半両銭がこの辺りで出土したと語り部さんがなんと本物を見せてくれました。半信半疑になりながらも、去り際に不老不死の薬とされた「天台烏薬(テンダイウヤク)」を実はひっそりとポケットに忍ばせました。

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■「里山」

ゆっくりと林道を歩き終わると伊勢路では必ず里山が見えてきます。ちょうど10月の下旬、秋の季節だったこともあり、収穫の時期。歩いていると「どこから来なさったのか」と尋ねられ、話が弾むと、やれサツマイモ、やれ蜜柑、と収穫物をおすそ分け。観光客をも温かく迎え入れてくれました。こんなこと都内ではきっとあり得ません。また流行りのIターン転職で他県から移住して働いている若者にも多く出会い、彼らが作る地元直産蜜柑ジュースは絶品でした。普段の生活では感じない人と人との繋がりを感じた優しい空間にほっこり。

神様も仏様もいる聖地、熊野古道。神仏混淆(習合)の日本独自の宗教観が息づく、スピリチャルな紀伊半島。普段は全くもって歩かないのに、次は中辺路、小辺路の順に挑戦したい!と帰路、神は私を決意させました。(坂岸)

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2017年10月12日 (木)

これぞ日本一、秋の夜空に輝く花火

「日本三大花火、土浦全国花火競技大会と水戸探訪2日間」から戻ってまいりました。
今回の旅の目的はなんといっても土浦の花火大会です。土浦の花火大会は、長岡、大曲の花火とともに日本三大花火大会の一つに数えられています。花火といえば夏の風物詩。なぜ秋に?と思われる方も多いでしょう。それは土浦の花火大会が実りの秋を祝うという意味もあるからだそうです。
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さて、土浦の花火大会はただの花火大会ではありません。正式名称は「土浦全国競技花火大会」。つまり、全国の花火師たちが腕を競い合い、日本一を目指すのです。今回も北は北海道から南は鹿児島まで、全国津々浦々からやってきた花火師たちが渾身の93の作品を打ち上げました。
午後3時、バスを駐車場に止め、私たちは会場である桜川沿いの桟敷席を目指して歩き始めました。途中からだんだんと人も増えてきて、なかなか前に進むことができません。土手沿いの道には多くの露店が立ち並び、美味しそうな匂いが漂ってきます。一般開放の土手は席取りの人々で埋まっていました。そうした熱気に押されて我々のテンションも上がります。巨大な桟敷席にはすでに大勢の人が座り、桜川に沈む夕日を眺めながら花火大会の開始をまっていました。
真っ暗になった夜6時、ついに大会が始まりました。始めに参加する花火師たちがずらりとステージにあがり、「皆様に最高の花火をお届けすることを誓います」と高らかに宣誓しました。そう、これは花火師たちの真剣勝負なのです。観る側も気が引き締まる思いがしました。普通の花火大会と異なるのは、「●番、○○煙火工業」というように花火が打ち上げられる前に出品業者が紹介されることです。審査は「スターマイン」「10号玉」「創造花火」の3部門で行われます。日本の伝統的な花火、真円を描く10号玉も素敵ですが、なんといっても豪勢なのは「スターマイン」でしょう。2分30秒以内に2.5号玉から4号玉数百発を音楽に合せて打ち上げ、テーマ曲の世界を夜空に描き出します。まるで踊り子が舞う舞台を見ているようで、息をするのも忘れて見入ってしまいました。素晴らしい作品には歓声があがり、打ち終わったあと、自然と大きな拍手が沸き起こりました。
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さて、花火大会のお楽しみの一つは、ワイドスターマイン「土浦花火づくし」です。競技作品ではありませんが、大会の中盤の約6分間、息をつく間もなく花火が打ちあがり、視界に入る夜空の全てが花火で覆われます。まさに圧巻の一言でした。
 余韻に浸りながらの帰り道は、行きよりも短く感じました。一瞬で消える花火に精魂傾ける花火師たちの情熱にふれたひと時でした。(大西)

土浦花火大会のツアーは2018年3月頃に発表予定です。
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2017年9月21日 (木)

これぞ三河の粋!“炎の祭典”手筒花火(国内旅行)

先日、9月9日発「豊橋“炎の祭典”手筒花火と井伊家ゆかりの地へ 2日間」より戻りました。この度のメインは何と言っても、450年以上もの歴史を持つ、豊橋の手筒花火見学です。手筒花火と聞いてもピンとこない方も多くいらっしゃると思いますが、手筒花火とは直径10cm、長さ約80cmの竹の中には火薬を敷き詰めて揚げる吹上花火のことです。打ち上げ花火との違いは、その火柱!何と10m以上もの火柱が吹き上げます。大きいものでは、筒の直径30cmにも及び、その火柱の高さといったら圧巻の一言。手筒花火は、愛知県豊橋市の吉田神社が発祥の地といわれ、かつてこの地を治めた徳川家康が三河衆に火薬の製造を任せたことに由来すると言われています。
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今回はそんな手筒花火が盛んな豊橋にて開催される手筒花火を中心とした花火大会“炎の祭典”を見学しました。隅田川花火大会などの都内で開催される大きな花火大会とは異なり、そこまでの来場者を想定していなかった私ですが、いざ会場に到着すると、地元の方々だけでなく、東西南北、全国各地から手筒花火を一目見ようと集結していました。会場は豊橋公園内の球場、外野席から内野席、さらにはグラウンド内に特設されたアリーナ席まで、空席はほとんどない程の賑わい。
そしていよいよ花火大会の開始!手筒花火を持った人々が横一列に並び、合図とともに点火。すると、次々と火柱が吹き上がります。打つ上げ花火とは違い、手筒花火は筒を持ったまま、火をつけ、吹き上がっている間もずっと人の手に抱えられています。火花が降り注いでくるのも構わず、ボーンっという吹上の終わりを告げる音が聞こえるまで、持ち手は片時も筒を手放すことはできません。とてつもなく熱いであろう火花に耐え、それでも一直線に火柱を上げ続ける持ち手の方々に、三河の粋を感じました。
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豊橋の手筒花火は、“炎の祭典”だけではなく、4月から10月にかけて豊橋市内各地で開催されます。豊橋を訪れる機会があれば、三河の粋を感じてみてください。(吉村)
豊橋“炎の祭典”を訪れるコースは2018年2月頃に発表予定です。
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2017年8月16日 (水)

一千年もの歴史!雅な世界観にうっとり。(京都、祇園祭)

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先日、「京都祇園祭、宵山・山鉾巡行と貴船の川床料理 3日間」の添乗より戻りました。毎年7月、ひと月に渡って神事、行事が行われる京都の祇園祭。中でも最大の見どころである山鉾巡行は、京都や関西方面にお住まいの方でなくともテレビのニュースなどで見かけたことがある方も多いはず。伝統に従い巡行は前祭り(さきまつり)、後祭り(あとまつり)の2回に分けて行われますが、今回は、巡行の3日前まで行われる「宵山」と「前祭り」をたっぷり楽しみました。

祇園祭の歴史は一千年以上も前、869年に全国的に疫病が流行した為、鉾を立て神輿を送って疫病退散を祈願したのが始まりとされています。時が経つにつれ、山鉾の数、そしてその装飾が豪華に付け加えられていきます。長い歴史の中では、応仁の乱や太平洋戦争などで祭りが中止されたり、火災の被害を受けた山鉾も数々ありましたが、その度に山鉾を有する町の人々の手によって祭りは継続されてきました。

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朝、余裕をもってホテルを出発し御池通りに設置された有料観覧席に到着!やがて、遠くから、お囃子が響いてきました。地元の方によると、その音は「コンチキチン」と聞こえるそうですが、私には言葉には言い表せられない、とても優雅な音色に聞こえました。一番鉾である、先頭の「長刀鉾」がゆっくりと進んできます。目の前に迫った時は、その美しい装飾、精緻な彫刻やエキゾチックな絨毯に目が釘付け。そして、よく見ると総勢20もの囃子方が乗る鉾の中央ではお稚児さんが舞っているではありませんか!今では、お稚児さんが乗るのはこの長刀鉾だけ。(人形の所もある)年毎に、選ばれたお稚児さんは神の代わりとして祭りの期間は様々な決め事があるそうです。大工方から囃子方、引手まで、沢山の人がこの日に向けてどれだけ準備してきたのだろうかと想像します。町によって、山鉾が異なるように、着物や持ち物、お囃子も異なります。そのような山鉾以外の違いも見ていると飽きません。

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こうして、最後の「大船鉾」まで、23基もの山鉾が2時間以上かけて通りゆく絢爛豪華な姿を目の当たりにし、暑さも忘れ夢中になって見入りました。京都府警の発表によると、今年は昨年より3万人多い22万人の人出だったそうです。ツアーでは観覧席で見学しましたので、混乱なく巡行を楽しむ事ができました。前日の夜は宵山で賑わう町を散策しました。ちょうちんに明かりが灯った山鉾も粋なものです。また、山鉾の周りや会所ではその町内の子供たちが粽などを声を張り上げて売っており祭りムードを盛り上げていました。日本三大祭りの一つであり、これ程の長い歴史を誇るこの大きな祭りが私たちの心を惹きつけるは、誇りを持って山鉾に携わる多くの地元の人々によって大切に受け継がれ支えられているからなのだと実感しました。(帯津)

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2017年7月26日 (水)

白神山地で感じる、晴れの森と雨の森

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先日7月2日出発「充実の白神山地ハイキング」の添乗に行って参りました。
白神山地は、青森県と秋田県にまたがる山岳地帯で、その面積は17,000ヘクタールに及びます。ほとんど人為的影響を受けずに残る広範囲に広がる原始的ブナの森が残されていることが評価され、1993年には世界遺産に指定されました。

今回のツアーでは、ブナの森を4日に渡ってハイキングし、じっくり歩いてきました。
まずは、白神山地南麓の秋田県側からスタート。田苗代(たなしろ)湿原では、キスゲのシーズンでした。今年は一面の花という状況ではありませんでしたが、ブナの森に囲まれた湿原にひっそりと咲くキスゲは、清廉な乙女のようでした。

ツアーでは4日間、ブナの森でガイドの方の話に耳を傾けながらハイキングを続けました。ブナは生育が遅く、また水分が多いため、建築資材としては繁用されることはありませんでした。しかし、ブナには特別な役割があります。森の中の天然のダムという役割です。ブナの木々はお互いに絡めながら根っこを地面に張り巡らせます。そうして、土中にしっかりと水分を貯め込んでいます。大雨があっても、ブナの根っこのお蔭でそう簡単に土砂崩れを起こすことはありません。また、約100年かけて立派な成木となったブナは、1本の木に約10トンの水を蓄えているのだそうです。10トントラック1台分の水分とは、ブナの保水力には驚きます。だからこそ、ブナの森にはシットリとした空気が漂い、足元は腐葉土でフカフカとしているのでしょう。

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さて、お天気はというと、梅雨の時期ということもあり、毎日晴れとはいきませんでした。曇っている時もあれば、本降りの時もあり、また、晴れ間が射すこともありました。このようなお天気の移り変わりもまた、自然の営みの一部です。雨の中を歩けば、ブナの大きな葉っぱから枝を伝って根っこへと雨が伝わる様子がわかりました。また、白い靄のかかった森では、まるで幽玄なる世界に迷い込んだような気がしました。そして晴れていれば、木々の葉からこぼれるような日差しを感じました。そのどれも、ブナにとっては生きていくために必要なものです。ブナが貯め込んだ水がやがて川を流れて海に注ぎ込み、その海で育った海の恵みをもって人間が生きています。白神のガイドの方々が、そんな話を情熱的に語っていたのがとても印象的でした。そうして4日の旅を終える頃には、ブナの森がとても愛おしく感じられるようになりました。雨の森、晴れの森、どちらも美しいブナの森に出会えた気持ちで旅を終えました。(斎藤さ)

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2017年7月18日 (火)

“花の浮島”礼文島と知床の自然

 礼文の花
 先日、「クルーズでつなぐベストシーズンの礼文島と知床を歩く」の添乗より戻りました。
クルーズ船“ぱしふぃっくびいなす”で小樽港から3泊の船旅へ。
 北海道のさらに北部。稚内沖に浮かぶ礼文島は、初夏、花々が咲き“花の浮島”と呼ばれます。港では島民の皆さんが、手作り昆布茶でお出迎え。ここからフラワーガイドさんと花を観ながらのハイキングに出発しました。チシマフウロ、レブンシオガマ、オオカサモチ、オオハナウド、センダイハギ、ハイキンポウゲ、エゾカンゾウ、ハマナス、アサギリソウ、ハクサンチドリ、シャク、オニシモツケ、バイケイソウ、ネムロシオガマ、エゾオオバコ、チシマシンレイカなどを観察しながらハイキング。午後には植物園を訪れ特定国内希少種、北海道の天然記念物に指定されているレブンアツモリソウを観察しました。
 翌日は世界自然遺産、知床へ。海と陸とが一体になった生態系と、生物の多様性が認められ、2005年、日本で3番目の世界自然遺産に登録されました。知床五湖フィールドハウスから、ライセンスガイドさんの引率で、五湖全てを堪能する大ループのハイキングに出発。早速ウグイスやアオジの鳴き声が歓迎。ただいま鳥の繁殖期。オスは鳴き声や木をつつく音、羽音でメスにアピールします。花が終わって大きく育ったミズバショウ。開拓期に植えられたトドマツの木。知床の森は広葉樹も針葉樹も入り交じった針広混交林です。キビタキの声、昔は鉛筆に使われていたイチイの木、アカハラの声、ヤマブドウのツルが絡み付いた木にはヒグマの爪痕。ヒグマは木登りが上手で、ぶどう狩りをしたようです。
5湖ではルリイトトンボが飛び、ネムロコウホネが湖から咲いていました。4湖のほとりにはツタウルシ、サルナシ(=コクワ、実はキウイのよう)、ギンリョウソウ、ミズナラの木(昔ニッカウイスキーで樽の材料にしていました)にツリガネダケ。雪解け水でできた通称3.5湖にはエゾアカガエルを食べにシマフクロウがやってきます。ガイドさんのご自宅にも稀にシマフクロウが現れるそうです。羽を広げると全長2mにもなり、まるで畳が飛んでいるように見えるとか。3湖そばには、かつて知床五湖の象徴だったミズナラの木の倒木。再びミズバショウの繁殖地、クマもヒトも食べませんが、エゾシカが食べます。2湖越しに次第に雲が晴れて見えてきた知床連山。羅臼岳、三ツ峰、サシルイ岳、オチカバケ岳、硫黄山、新噴火口が並びます。
 巨大なキツツキ、クマゲラの開けた穴。穴を開けた後、長い舌で中の虫を食べますが、舌は木を突くときに脳を守るクッションの役割も果たすそうです。突いて開けた穴の形が舟に似ていることから、アイヌの人々は“舟の掘り方を教えにきてくれた神様”と呼ぶそうです。
寝ている間に次の目的地へ。クルーズの旅が快適なことは言うまでもありませんが、ぱしふぃっくびいなすは日本クルーズ客船が運航するだけあり、船員も皆日本語ができ、船内生活には一切不自由がありませんでした。 (尾崎)

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2017年6月30日 (金)

海の底へと沈んでいった多くの命(沖縄)

本日は海外の話題ではなく、日本国内の大切な、でも少し暗いテーマを。

6月23日沖縄の慰霊の日、テレビや新聞で多くの人が犠牲者を悼んでいるを見ながら、私も人生で初めて、当日に沖縄に向けて静かに黙祷を捧げました。そうさせたのは、先日「沖縄地上戦の事実に触れる旅3日間」のツアーより戻ってきたからです。

Blog

今から72年前の4月1日米軍が本島上陸した読谷村の見学からツアーは始まり、首里陥落から撤退、そして本島南部・組織的戦闘が終わった6月23日の摩文仁の丘までを巡る決戦の時間軸の添った濃い3日間でした。その中でも、那覇市内にある「対馬丸記念館」では、体験者の方の語りを聞くことができ、貴重な時間を過ごしました。

1944年7月にサイパン島で日本軍は全滅し、大本営は沖縄が戦場になる日が近いと読み、県民のお年寄りや女性そして子供を船で県外へ疎開させるように指示をしました。1944年8月22日その疎開船の1隻対馬丸には学童、一般合せて1661名の疎開者が乗船したにも関わらず、夜22時過ぎ、米軍の魚雷攻撃を受け、わずか10分足らずで沈没し、分かっているだけで1482名が犠牲になった(データは今も更新されています)惨劇、対馬丸事件。

今回の語り部の方は、一般疎開でお母様、お姉様と一緒に対馬丸に乗船し、たった4歳で生き残ったという男性でした。

「4歳ということもあり、鮮明には覚えていません。船が沈没する瞬間「飛び込めー」「早くしろー」という怒号が今も聞こえてくる気がします。そして海に投げ出された後、醤油樽につかまったお母さんと自分、お母さんは「お姉ちゃんを探してくる」と言って樽を離して泳いで行ってしまい、それきり見ていないんです。だから、小さい頃から「お母さん」と発した記憶がないんですよ。」

空腹の中、数日間海を彷徨い、奇跡的に漁船に救助されたご本人。それから九州を転々として沖縄に戻ったのは7年後だったとのこと。そして、事実を伝えてはいけないという「箝口令」が二重に生存者たちを苦しめました。本島に残った家族は音沙汰ない子供たちの安否を心配し、生き残りの人たちは自分の不安を誰にも伝えられない-。
対馬丸記念館のフロアには亡くなった方の写真展示があり、語り部の方のお母様やお姉様のお写真も紹介してもらいました。

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沖縄県民の4人に1人が亡くなったと言われる軍民一体で戦った本土決戦、戦没者は前述の対馬丸の犠牲者を含めて20万人以上。決して忘れてはならない、繰り返してはならない史実を勉強した3日間でした。

旧海軍司令部壕で読んだ大田実海軍司令官の有名な訣別電報
「沖縄県民カク戦エリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
(=沖縄県民はこのように戦いぬいた。県民に対し、今後、特別の配慮をお願いしたい)

戦後、本当にご高配が賜られているのか・・・米軍の訓練機が轟音をたてて飛ぶ沖縄の空を眺めながら考えました。(坂岸)

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2017年6月13日 (火)

約250年守り抜いた信仰心の継承(長崎・五島列島)

5/18発「五島列島巡礼の旅4日間」の添乗に行って参りました。

ホテルマルゲリータから五島灘の風景

私にとっては日本における1549年からのキリスト教の布教や豊臣秀吉による伴天連追放令から禁教、弾圧、踏絵などを、日本史の授業で習ったけれど、深く掘り下げず済ませてきてしまった歴史の一部分でした。教科書にしてみたらわずか1ページほどの出来事でまとめられていることが、その歴史に踏み込んでいくとなんと痛ましく、悲しくも想像を超える驚異的な出来事だったことに衝撃を受けました。「1614年の全国への禁教令の発布から1865年の大浦天主堂にての潜伏キリシタン発見までの約250年。弾圧から逃れ信仰を守り抜いた。」と一文で終わらせてしまえばそれまでですが、現地を訪問し、3世代近くもの間、国からも世間からも非難と差別、命の危険にさらされながら、自分の信じるものを守り通したことや世代から世代に話しつがれた欧州の司祭、宣教師や想像だけのものであった教会を長崎で目にした五島からの潜伏キリシタンの人たちの心境はいかばかりだったかを想像すると胸を締め付けられました。禁教が解かれてからも貧しい信徒の方々が漁をしてのわずかな稼ぎと自分達が建設の労働に従事することで教会を建てられたという話などを聞きながらあちこちの教会を巡っていく内に、人々の念願の想いが凝縮して出来た教会ひとつひとつが素朴ながらも尊いものに見えました。いまこの五島を新しい世代の人が新しい形で観光アピールをしています。そうした活動の中でも過去の歴史を大切に大切に思う心が積極的な言葉ではなく、現地の人の優しい謙虚なオーラから感じられました。

久賀島の木造・旧五輪教会

本場ヨーロッパのような巨大な教会はひとつも五島にはありません。素朴な造りの教会、素朴ながらも本場に負けない交差ヴォールド天井や柱頭飾りがついた列柱の内装、日本建築を取り入れた教会などなど。小さな島国日本・・・ではなくここ五島だからこその教会。ヨーロッパのような巨大さによって圧倒もさせず、豪華絢爛ではないけれども、守り通した信仰と強い精神、謙虚でいて美しい五島の信徒の方々を象徴した教会は、ほっこりして温かみを感じさせられました。失礼かもですが、そう思ったのも教会が平屋でいて日本家屋的な造りから、自分が生まれ育った昭和初期の木造家屋に重なって、自分の家にも近いようなものを感じさせられたのもあるかもしれません。
また私事になりますが、不思議なことに、この添乗から帰国しましたら、4月から重だるかった5月病のような体の不調と気分の沈みがカラリと治りました。島の雰囲気や空気の良さ、優しい現地の方たち、素晴らしい景観、教会群、美味しい料理の要因も考えつつ、ちょっとなにかしらの病を癒す奇跡を頂けたかなと感じずにはいられませんでした。(高橋)

野崎島・旧野首教会

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2017年6月 8日 (木)

ドッキドキの橋渡り(徳島・祖谷)

先日、「阿波の絶景、大歩危・小歩危 祖谷とこんぴら参り 3日間」より戻りました。
徳島・鳴門では世界最大のうずしおを“渦の道”渦上45メートルの海の上、下を覗きながら歩いたり、奇岩の間、大歩危峡を川の流れにのって遊覧船。香川の琴平では讃岐の金刀比羅宮、こんぴらさんを参拝。うどんのいい匂いを嗅ぎ、讃岐平野の景色を眺めながらの思い出の785段。本当に実りの多い3日間でした。

その中で最も印象深かったのが奥祖谷の二重かずら橋でした。
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昔、平家一族が馬場での訓練に通う為に架設した橋は追ってから逃れる平家の落人が楽に切り落とせるようにシラクチカズラで編んで作られたそうな。観光地としても有名な祖谷のかずら橋。ここより更に奥へ奥へとバスを走らせること約1時間。先ほどまでいた他の観光客の方はどこへ行ったのだろうか?静まり返った森の中からは鳥の鳴き声と川の音だけが聞こえてくる。奥祖谷にも残るかずら橋は一方通行で渡るかずら橋と違い男橋、女橋の二重かずらだけでなく、野猿と呼ばれるロープを自分の手で引っ張り対岸へ移動する人力ロープーウェイなるものもあるのです。下はすけすけ。橋の間隔では大人は絶対に落ちることはないからと言われても足がびくびく腰はひける。皆でキャーキャー言いながら
2本の橋を渡り最後は野猿も挑戦!と、空気が澄みきった自然の中で童心に戻って楽しむことができました。

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奥祖谷が印象に残った理由の一つに二重かずら橋近郊にある“かかしの里”の影響も大きかったと思います。最近テレビでも放送されていたかかしの里。もともとは畑にくる野生動物を追い払う為に作り始めたそうだが今では住人?畑仕事をするかかし、バス停で待つかかし、結婚式をあげているかかし・・・。今にも動き出しそうな、お喋りする声が聞こえてきそうな、メルヘンな空間。愛情いっぱい注がれた、かかし里はそんな場所でした。(岩間)
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