2018年12月13日 (木)

サルディーニャ島のタロス遺跡で折り重なる歴史を目撃!(イタリア)

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<タロス遺跡/サルディーニャ島>

遺跡観光というと、まず、ギリシャ遺跡なのかローマ遺跡なのかなど、それを築いた文明はどこかが気になるところですが、タロス遺跡はサルディーニャ独自の先史文明であるヌラーゲ文明、そしてフェニキア文明、ローマ文明が時代は違えど同じ場所に都市を築いたというユニークな経歴の持ち主。

そのため、例えばフェニキアの井戸があったかと思えばすぐ隣にローマの水道橋が走っていた跡があったり、大通りの石畳を見ても、きっちりと平らにならされたローマ人の几帳面な石畳が剥がれたところからは、丸石を無造作に並べたフェニキア時代の石畳が顔を出していたり。そんな複数の時代を見比べることができるため、さながら野外博物館のようです。

タロス遺跡が長い歴史を通して多くの文明に重用された大きな理由は、この遺跡の立地にあると思われます。タロス遺跡はシニス半島の先端のサン・マルコ岬にあり、遺跡の東西が海に面しているため非常に海運の便が良いのです。東西どちらから風が吹いても海に出ることができるため、特に海洋民族であるフェニキア人はこの点を重要視したようです。

海に面した斜面に建てられている町には巨大な神殿がありましたが、これもかつては入港した異邦人たちを圧倒したに違いありません。また、かつての町の歩行者道路だったと言われる商店街ではローマ時代の店舗の跡を見ることができます。引き戸の戸袋が掘られた石の隣は、店に出入りした人々によって踏みならされ、中央が丸く擦り減った敷居の石がありました。波の音に紛れて、束の間ローマの喧騒が聞こえたような錯覚に陥るほど、当時の生活の跡が随所に残る遺跡です。

遺跡ファンの皆さまには、後悔のない訪問になること請け合いです。ぜひ訪問リストに加えてくださいね。(松永華)


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2018年11月13日 (火)

終着点が運んだ発展 ~アッピア街道~(イタリア)

先日、「アッピア街道、古代ギリシア・エトルリア・ローマ文明 10日間」の添乗に行って参りました。

“全ての道はローマに通ず”有名な言葉ですが、ローマを中心に張り巡らされた石舗装の街道は、紀元前312年に着手したアッピア街道から始まりました。街道は軍隊の迅速な移動を目的として建設されたので、領土が拡大するにつれ、街道は新たに造られ、最終的に幹線道路で8万km(地球約2周分)、支線を含めると15万kmの道を残しました。もちろん平時には、街道は一般人にも使用され、そこを商人が交易品を運び、異国の植民市からの食べ物や文化も運ばれてきました。

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<トラヤヌスの記念柱>

ツアーは、アッピア街道の終着点ブリンディシから始まりました。南イタリアはギリシア人の植民市が各地にあり、ブリンディシもそのひとつでした。紀元前3世紀にマグナグラキエ(大ギリシア)と呼ばれるギリシア人植民市の中心都市ターラント(古名タラス、タラントゥム)を陥落したローマがイタリア半島統一を果たしたことで、領土拡大と共に少しづつ延伸させてきたアッピア街道がターラントを経由して、半島かかとに位置ずるブリンディシまで達しました。そしてブリンディシの港にてアッピア街道は終着点となり、そこから先に見えるのは青い海。陸路としての道はここで終点ですが、ここから出航した船がオリエント世界の交易品や文化を再び戻って運び、兵士たちは半島から更に遠くの異国の戦地へ赴き、拡大したローマ領土を治めるための移動や巡回の為に皇帝、副帝がこの港から出航したのかとイメージすればするほど、感慨深いものがありました。
ブリンディシもターラントもいまでは小さな南イタリアの街で、中心地は半日もあれば見て周れる広さ。しかし先述したように紀元前からギリシア→ローマの街でしたので、掘れば遺跡が出る出る。特にブリンディシでは、外観は中世の建物でも、それを建設したり修復した際に地下からギリシアやローマの遺跡が発見されたので、その建物内部に発掘された遺跡が見えるよう保存していました。知らなければ素通りしてしまうので、ガイドさんの導きによって知らなければ見られない隠れた観光スポットを訪れられた気分でした。
そのように紀元前4世紀までギリシアとゆかりの深かった南イタリアですので、訪れたブリンディシをはじめとしたターラントやパエストゥムでは、貴重なギリシアの発掘品と古代ローマの発掘品、ギリシア神殿の遺跡を見ていきました。

ナポリでは、郊外にある有名なポンペイ遺跡を訪れれば、当時のまま残る建物も興味深いのですがローマの道は街道だけではなく市内の道だってローマの道、と道にも注目しながら観光しました。商品を積んだ馬車が残していった轍の跡は、たくさんの馬車の往来を彷彿させ、東西南北の基幹道路デクマノスとカルドがしっかり定まった街づくりに注目してしまったりするのもこのツアーならではかもしれません。さらにナポリというと、普通イタリアツアーで滞在はしても街中をじっくり見ることは少ない街。賑やかなスパッカナポリという旧市街の中心地はお土産屋と中世の教会をみて終わりになりがちですが、この街の地下に隠れた広大な遺跡が眠っているのはあまり知られていません。現在の地上にたつ中世以降の建物の下に紀元前のギリシア時代の遺構と古代ローマ時代の遺構があり、ここでも表向き中世時代に建てられた教会から地下へと降りていくと、そこには古代ローマ時代の商店の跡などが残っている空間が!賑やかなお土産屋が並び、多くの観光客でひしめく地上と対比して、ひんやりとした空気に静まり返った地下に残る遺構空間では、現代とは少し違う時間が進んでいるような不思議な気分になりました。わずかな階段を下っただけで、別世界に一瞬にして来られたような感じでした。

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<ハドリアヌス帝の別荘に残るティヴォルティーナ街道>

そしてツアー後半はローマとその近郊へ。偉大な遺跡を残したローマも始めは不器用で、先輩から習って成長していった若者のようだと思わされたエトルリアと絡めた観光をしてきました。かつてのローマ市内が湿地帯で低地に住めない場所を排水設備によって水をテヴェレ川に流した技術はエトルリア人によるものであり、それによって生まれたフォロ・ロマーノを含めた低地を歩きながら、後世の皇帝たちによって建てられた周辺にある数々の建造物も、こうした技術の伝達や教わった技術の更なる向上と磨きがあってこの景色が生まれたのかと思うとローマの長い歴史を身に染みてすごいものだと感じることが出来ました。また建築においてはアーチをローマ人に伝えたエトルリアあって後世にローマの数々の素晴らしい建造物が生まれたともいえ、高いドームがある石造りの建物に入っては、知識が伝わること、そこから発展させていくこと、そして出来上がった素晴らしい物がこうして長い年月残っていることに感動してしまいました。その先輩であるエトルリア人の発掘品を展示していたタルクィニアの国立博物館では、ギリシアの発掘品と負けじ劣らずの素晴らしい作品や生活用具を見ては、紀元前に高度な技術や文明があったことに驚かされました。

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<街道沿いに植えられた傘松>

最終地ローマでは、地図を広げればテルミニ駅の東から北東へティヴォリへ伸びるティヴォルティーナ街道、アヴェンティーノの丘の南からオスティアまで延びるオスティエンセ街道、そしてカラカラ浴場の南から延びるのはアッピア街道。
アッピア街道においては終点からの始まりだったツアーでしたが、アッピア街道を始めとし、様々な街道から人、文化、もの(付随して知識)が流入し、できあがった様々な時代の建造物が残る集大成ローマを最後に訪れるというのも良いものでした。


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2018年10月30日 (火)

3500年間、火山灰の下で眠っていた古代都市(アクロティリ遺跡/ギリシャ)

先日、ギリシャ15日間のツアーより帰国致しました。
冬に向けて徐々に肌寒くなる頃ですが、ギリシャの太陽はまだまだ元気。そんな時期のツアーでした。
ギリシャ本土から、島を伝って北から南まで訪れるツアーということもあり、様々な場所へ赴きましたが、私が最も心惹かれた場所がこちら。

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アクロティリ遺跡です。
青い海と青い空、白い建物と教会の青いドームで知られる、サントリーニ島の南に位置しています。
サントリーニ島へバカンスへ訪れる観光客は多いものの、中心地から車で約40分程の好立地にあるにも関わらず、この遺跡はあまり有名ではありません。

アクロティリは、クレタ島のミノア文明が栄えていた頃と同時期に存在していた都市と考えられています。
ですが、紀元前1500年頃の海底火山の噴火の影響により、この都市は崩壊しました。
古代都市の栄華は、都市の全てが火山灰で覆い尽くされるという結果で、終焉を迎えることとなったのです。

それから誰の目にも触れられぬまま、1967年にギリシャ人考古学者マリナトスによって発掘されるまで、ひっそりと火山灰の層の中で眠っていました。

驚くべきは、その発掘品。なんと3500年前の壁画が、色を残した状態でいくつも発見されたのです。

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<アクロティリの壁画(ギリシャ)>

火山灰で埋もれたことにより、劣化が少なかったことが功を奏したのでしょう。
その壁画の一部は、サントリーニ島のフィラにある先史博物館で見ることができます。

また、壁画だけではなく、古代都市の生活スタイルを想像できるような品も多数出土しています。石膏を使い、木製のベッドや椅子等の再現も進んでおり、3500年前に人々がどんな生活を営んでいたのか、目の前に浮かんでくるかのようです。

この遺跡の興味深い謎は、まだまだたくさんあります。
たとえばこのアクロティリ遺跡、50年の発掘作業を経ても、人骨や金銀財宝が未だに見つかっていない、ということ。突然の天災に見舞われて、都市が姿を消したはずなのに...?
つまり、当時の住民は何らかの方法で災害を予見して、財産を持ってどこかへ逃げたと考えるのが、妥当ですよね。
一体どうやってそんなことを知ることが出来たのかと考えれば考えるほど、謎は深まるばかり。その当時の人々には、ほんとうに神託や神から与えられた予言の力があったのではないかと考えてしまいます。

私たちが訪問した時は、ちょうど遺跡の片隅で発掘作業の真っ最中でした。神殿跡と思しき場所からは、奉納品と考えられる金色のヤギ像が発掘されたりと、まだまだアクロティリの新発見は続きそうです。続報に期待!

最後に、美しいサントリーニ島の景色をおひとつ。

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<サントリーニ島(ギリシャ)>

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2018年10月11日 (木)

ナショナリズム溢れる地、ルーマニアとブルガリア

先日、「ルーマニアとリラの僧院 10日間」の添乗から戻りました。ルーマニアとブルガリア、古くはローマ帝国、中世以降はオスマン帝国などの近隣大国の支配に脅かされながらも独立を達成するべく戦い続けた2国ですが、そんな2国のナショナリズムを感じられるような地を巡りました。

ルーマニアは中世以降、西はハンガリー、東はモンゴル、オスマン帝国と、当時世界に名を轟かせた強国の間に位置し、その脅威に曝され続けました。ブラショフに残る黒の教会はハプスブルク家との戦争で外壁が黒く焼け焦げた為その名がつきましたが、今では風雨で少し色が落ち、黒というよりは暗い灰色のよう。それでも17世紀に受けた被害が未だに残っていると考えると、戦争の苛烈さが伺えました。

同じブラショフにある建築物で、オスマン帝国に対する要塞として建てられたのがブラン城。ブラン城はブラム・ストーカーの小説「吸血鬼」に出てくるドラキュラ城のモデルになったお城です。ブラン城の中にはドラキュラが使用したと思わせるようなアイアン・メイデンや拷問椅子も置いていましたが、どちらかというとそれは「女吸血鬼カーミラ」のモデルになったバートリ・エルジェーベトのイメージでしょうか。

ドラキュラのモデルになったワラキア公ヴラド3世は「串刺し公」の異名で、ハンガリーによるプロパガンダ、ブラム・ストーカーの小説による誤認により恐れられたワラキアの君主ですが、実際にはオスマン帝国のワラキア侵攻を防いだ名君、ルーマニアの英雄でした。

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<リラの僧院>

ブルガリアではブルガリア正教の総本山リラの僧院へ。リラの僧院は、中世以降オスマン帝国の支配に置かれる中で、幾度戦火に焼かれようとその信仰を保ち続けた、ブルガリア人の心の故郷であるとも言われています。天井、外壁に描かれたフレスコ画の完成度からもその名に違わぬ信仰の篤さが感じられました。

もう一つの民族意識の高揚で連想される地はコプリフシテツァ村。ここは、オスマン帝国からの独立のために立ち上がった、四月蜂起が起こった地です。オスマン帝国の間者により四月蜂起は失敗しましたが、四月蜂起に立ち上がった人物の家屋や、四月蜂起の日付が名前になっているレストランもあり、ブルガリア人のナショナリズムの高まりを感じられた地でした。

異国の侵略に脅かされたことがほとんどない日本の歴史からは感じることが難しい、ナショナリズムに触れ続けた10日間でした。(永田)

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2018年7月26日 (木)

ヨーロッパ民主化の始まりの地、グダニスク(ポーランド)

先日、「華麗なるポーランド紀行 9日間」の添乗より帰国しました。グダニスク、クラクフ、ワルシャワとポーランドのなかでも、歴史的・経済的にも重要な3都市を巡ります。ツアーの中では、各都市にまつわる様々な出来事をたどっていきます。
ワルシャワで生まれたキュリー夫人や作曲家ショパンの活躍、アウシュヴィッツ強制収容所などは耳にしたことがあるかもしれません。では、グダニスクという都市がどのような場所なのか皆様はご存知でしょうか。グダニスクは、ポーランドの北部に位置する港湾都市です。都市としては10世紀に形成されました。13世紀ドイツ騎士団のもとにあったころからハンザ都市の1つとして貿易機能を高め、現在もポーランド一の港町として栄えています。歴史的にみると『第二次世界大戦』、『連帯』と2つの大きな出来事がこの地から始まっています。

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<グダニスクの旧港>

中でも『連帯』に関してはもしかしたら新聞やニュースを通して、丁度ご覧になったかたもいらっしゃるかもしれません。1980年にこの地の造船所から始まった運動で中心となったのはレフ・ワレサ。もともとは、造船所の電気工でしたが運動の中で指導者として活躍し、最終的にはポーランド大統領も務めます。やがてこの運動の波は、ポーランド全体そして東ヨーロッパの社会主義圏全体へと広がっていき、多くの国々が民主化を迎えることとなります。
ツアーの中では、造船所の跡に建つ『連帯のモニュメント』や運動を支援していた『シフィエンティ・ブリギティ教会』などその足跡を巡っていきます。民主化を果たし、現在成長中のポーランド。集合住宅やセントラルヒーティングなどまだまだ社会主義国時代の名残も残りますが、これからどのように変わっていくのか非常に楽しみな国の1つです。(佐藤史)

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2018年7月10日 (火)

西安、敦煌、ラサ、歴史と文化と信仰に触れる旅

先日、「西安・敦煌・青海チベット鉄道」のツアーから帰国しました。

旅のスタートは、古くは長安として栄えシルクロードの起点でもあった歴史ある街、西安です。まずは唐の皇帝玄宗と楊貴妃縁の地、華清池へ。温泉地として唐の歴代皇帝が利用し、特に玄宗が楊貴妃の為に離宮等を建設しました。玄宗と楊貴妃が仲睦まじく過ごした様子が長恨歌にも詠まれています。そんなロマンチックな場でもありますが、1936年には西安事件が起こり、蒋介石がこの地で監禁され国共合作へと繋がった、歴史のターニングポイントの場にもなりました。

華清池の次は兵馬俑と秦の始皇帝陵へ。時代は唐から秦へと遡ります。兵馬俑博物館は、1号抗、2号抗、3号抗と分かれています。その中でもやはりメインは1号抗。始皇帝の陵墓を守る為に造られた兵馬が一面に並ぶ光景は圧巻です。兵馬俑を見学した後は隣の始皇帝陵へ。未だに発掘されていない陵墓の中は、金銀宝石を散りばめた星空に水銀の川、始皇帝が生前過ごした阿房宮が再現されていると言われています。その内部は司馬遷の『史記』にしか語られていません。足元に浪漫を感じながら西安市内へと戻りました。

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<兵馬俑>

午後は明代に造られた城壁を見学した後、三蔵法師が経典を持ち帰り、翻訳に努めた大慈恩寺大雁塔へ。時代は再び唐へと戻ります。約250段の階段を上り、西安の街を眺めました。西安最後の観光は絲綱之路起点群像。シルクロード東の起点であったことを記念し建てられた像を見学しました。像の中には西安からシルクロードを切り開いた張騫の像も。

西安観光の次はシルクロードのオアシス都市、敦煌。敦煌到着後は鳴砂山と月牙泉へ。ラクダに乗って砂漠を行き、かつてシルクロードを旅したキャラバンの気持ちを味わいました。翌日は4世紀から作られ始めたとされる莫高窟の観光。シルクロードを通じて中国は勿論、インド、中央アジア、ペルシア、果てはヨーロッパのローマ、ギリシャまで、様々な文化の影響を受けた美しい壁画、仏像を見学しました。
西安、敦煌と観光した後はラサへと向かうべく、ゴルムドから青海チベット鉄道に乗車。約13時間かけながら、時に標高5000m以上を走り太陽の都、ラサへと向かいました。ラサ駅で下車すると太陽の都の名に相応しい、突き刺す日差しがお出迎え。1日休んで標高の高い地に少し慣れてから観光へと向かいます。
ラサではポタラ宮を始め、ダライ・ラマの夏の離宮ノルブリンカ、チベット仏教最大の聖地ジョカン寺など、チベット仏教に纏わる地を訪問。現在ダライ・ラマ14世はインドに亡命しており、最高指導者は不在であるものの、禅問答の様子や五体投地をする人々を見るとラサの人々の信仰心の篤さを感じました。
古都西安に始まりシルクロードからチベットの聖地まで、歴史、文化、信仰すべてに触れた、充実した9日間でした。(永田)

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2018年6月 5日 (火)

玄奘三蔵も訪れたキルギスへ

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<アク・ベシム遺跡、発掘現場>

先日「地獄の門と中央アジア4ヵ国周遊 18日間」のツアーより戻りました。
このツアーでは、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタンの自治共和国のカラカルパクスタンとウズベキスタンのヒワ、トルクメニスタン、最後にウズベキスタンのブハラやサマルカンド、タシケントと周ります。陸路での国境越えや、地獄の門のテント泊と普段体験できないことがたくさん詰まった旅でした。

今回のツアーで特に印象に残ったのは、最初のキルギスの観光です。アク・ベシム遺跡と呼ばれるこの遺跡はかつてシルクロードを歩いた玄奘三蔵が訪れたとされています。また唐代の詩人李白が生まれたのがこの地とする説があるとガイドさんからお話しがありました。私たちはたまたまこの時期に発掘調査に来ていた帝京大学の山内教授の発掘現場を見学させて頂きました。また直接山内先生からお話を聞くことができました。普段はめったにみることのできない光景にお客様も興味深々でした。

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<イシク・クル湖>

また玄奘三蔵がインドを目指し天山山脈を越えた後に訪れたイシク・クル湖にも訪れました。この湖は世界で2番目の透明度を誇る湖として知られています。今回宿泊したホテルからは歩いてイシク・クル湖を楽しむこともでき、日の出観賞された方もいらっしゃいました。またこのイシク・クル湖の底には文明があったとされる遺跡があり、海中探索中の様子や出土品は、後日訪れた首都のビシケクの観光でみたロシア・スラブ大学付属博物館にて知ることができました。他にも謎の多いイシク・クル湖のクルーズはこれから砂漠の景色に向かう私たちに潤いを与えてくれました。

今回のツアーでは陸路での国境越えがいつも難関になりますが、ウズベキスタンの査証免除や税関申告書の提出不要など、より観光客が来やすいように態勢が変わり、いつも以上にスムーズに国境を超えることができました。これからも中央アジアの国にさらに多くのお客様が訪れるように願っています。(森)

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2018年4月18日 (水)

古代ローマ最初のインフラ事業、アッピア街道、イタリア

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<アッピア街道>

先日、「永遠の都ローマ滞在 2800年の歴史に学ぶ 7日間」のツアーから帰国致しました。
今回のツアーでは、「すべての道はローマに通ず」と言われたアッピア街道の散策にもご案内致しました。アッピア街道は古代ローマ最初のインフラ事業とも言われる街道で、紀元前312年当時の財務官アッピウスによって建設されました。彼の名をとってこの道はアッピア街道と呼ばれることになり、政治、軍事、行政上でも必要な重要な道となりました。
馬が往来できるように道は出来るだけ平坦な石畳が敷かれた舗装道路でした。アッピア街道の一部には未だに当時の石畳が残る道があります。今回ご案内したのは朝の早い時間だったこともあり、あまり人もおらず古代ローマにタイムスリップしたかのようでした。アッピア街道にはマイルを刻む大理石の円柱が建てられています。1ローマ・マイルは約1.5キロ。1.5キロごとに大理石が立ち並び、地面も隙間なくぴったりと石畳で舗装されていたと考えると当時は本当に綺麗な道だったのだろうと想いを馳せながら散策を楽しみました。この道はローマ人たちも重要視していたそうで道の脇には貴族の別荘やお墓が立ち並びます。そして今回は丁度、野花の季節ということもあり、道の脇には小さい黄色い花が沢山咲いていました。今回散策できたのは一部でしたが、このまま歩き続けば憧れの都ローマに到着できるかと思うととても心弾みました。この道をローマ人たちはどのような気持ちで通ったのだろうかと考えるととても感慨深い散策となりました。(竜崎)

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2018年2月 9日 (金)

新世界への近道!?マゼラン海峡(チリ)

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<マゼラン海峡の砂浜に座礁した羊の運搬船>

先日、南米のパタゴニアから帰国しました。

パタゴニアとはアルゼンチン・チリ南部地域のことです。
南米大陸を南北に7500キロに渡って貫き、チリとアルゼンチンを 分かつ雄大なアンデス山脈の峰々の下で銀嶺を眺めながら歩き、 巨大氷河の崩落を間近で観察し、手付かずの自然を楽しむ ことができる場所です。今までの添乗員ブログではモレノ氷河や クライマーの聖地フィッツロイ、チリのアンデス山塊パイネなどが度々 紹介されているので、今日はパタゴニアの隠れた見どころの一つ、 マゼラン海峡をご紹介します。

マゼラン海峡は、初めて世界一周を成し遂げたマゼラン提督が 発見した海峡です。コロンブスの新大陸発見後、ポルトガルやスペインなど当時の海運
国の次なる目的は黄金の国ジパングや香辛料諸島に辿り着くこと でした。コロンブスが発見した新大陸(インド)をぐるりと南まわりで 回り込むと大きな湾があり、そこに黄金の国や香辛料諸島があると 思われていました。 マゼランはいくつもの湾や川をしらみつぶしに徹底的に探索しては 失望し、そしてついに発見したのがマゼラン海峡でした。

ところが海峡を抜けた後にあるはずの大きな湾や黄金の国ジパングや 香辛料諸島はなく、その代わりに広がっていたのはとてつもなく広い 太平洋だったのです。
当時のマゼランはそんなことを知る由もなく、太平洋を横断し、 東南アジアのセブ島とマラッカに辿り付いたのでした。

当時のマゼランにとっては海峡を越えた後は全くの未知の世界 でした。食料や水も尽き果てる中、残りどれほどの日数で目的地に 辿り着けるかも定かでないまま、島影一つ見えない大海原に乗り出していったマゼランと航海士達の冒険心や勇気を想うと感心 せずにはいられません。

ツアー中にはこのマゼラン海峡沿いをバスで走り、最も狭くなっている 6キロの幅の海峡をフェリーで渡りました。
知らなければただの海峡ですが、マゼランの壮大な挑戦を思い 浮かべながら、マゼラン海峡を見渡します。
たったの30分足らずの航海でしたが、自分で未知の世界へ冒険した 訳でも無いのに何だか感無量になりました。(上田)

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2018年2月 7日 (水)

大航海時代はここから始まった。独立を守り通した記念に捧げられた、バターリャ修道院へ(ポルトガル)

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<バターリャ修道院/回廊より>

先日、ポルトガルの添乗から帰国致しました。
大航海時代の富に支えられ、数多くの壮麗な建築物が残るポルトガル。航海用具や南国の植物などをモチーフにした独特のマヌエル様式を始め、壮麗な建物が好きな方なら絶対に訪れて損はない国ですが、そんな中でも今回特に目を引いたのが、ポルトガル中部、アレンテージョ地方の小高い丘にそびえるバターリャ修道院です。

バターリャ修道院の正式名称は、モステイロ・デ・サンタ・マリア・ダ・ヴィトリア、「勝利の聖母マリア修道院」。14世紀半ばから、ポルトガル王ジョアン1世が建設を始めました。さて、「勝利の」という言葉は、ジョアン1世がお隣スペインのカスティーリャ王国との戦いに勝ったことを意味します。
というのも、ペドロ1世の庶子であったジョアン1世は嫡男であった兄・フェルナンド1世が亡くなったため王位を継ぎますが、兄家族に血縁関係のあったカスティーリャ王国はこれを根拠にポルトガルの王位継承権を主張します。アルジェロバッタの戦いと呼ばれるこの王位継承戦争に負ければ、ポルトガルはあわやスペインに併合されてしまう!というところで独立を守ったのが、このジョアン1世なのです。
彼は約50年の治世の中でポルトガルの最盛期と築き上げ、この国に富と名誉をもたらした大航海時代を切り開きました。彼の5人の息子の一人が、日本でも有名なエンリケ航海王子です。未知の大陸からもたらされた目新しい植物や、航海用具の装飾が所狭しと施された屋内は、その素材が石だとは信じられないほど。繊細なレースのような彫刻には目を奪われるばかりです。
そんなポルトガルの黄金時代を築き上げたジョアン1世は、今も妻フィリッパと5人の息子たちとともにこのバターリャ修道院に眠っています。彼があの戦いに負けていたら、大航海時代もマヌエル様式もなかったのだろうか。そんな風に思いを巡らさずにはいられない歴史の転換点を感じられる修道院でした。(松永華)

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