2008年2月12日 (火)

エドモンド・ヒラリー卿の栄光

Hillary 先週夕食を食べながら、ふとした話題から「ヒラリーが亡くなった」という話になった。大統領選がニュースを賑わす毎日が続いているので、皆すわやヒラリー・クリントンの暗殺かと色めきたったが、ヒラリーはヒラリーでも、亡くなったのは、ニュージーランドのエドモンド・ヒラリー卿であった。享年88歳。

ニュージーランド南島に位置する同国の最高峰マウント・クック(標高3754m)の麓にただひとつのハーミテッジと呼ばれる複合的な宿泊施設がある。晴れた日には、ハーミテッジからマウント・クックの偉容を眺める事が出来、複数の登山路もそこから伸びている。その場所に、在りし日のヒラリー卿の像が立っている。その目は、大好きだった故郷の最高峰に今でも注がれたままだ。

Ruapef ニュージーランドの北島オークランドの近郊で生まれたヒラリー卿は、内気な少年で成績も並、特別スポーツに強かったという記録も残っていない。読書に多くの時間を割き、色々な冒険に夢を馳せていたと言われている。転機が訪れたのは高校生の時、現在では世界遺産にも登録されているトンガリロ国立公園のルアペフ山の登山に出かけた時だ。この時に自身の山にかける情熱と自身がその分野に長じている事を認識したという。成人してからは、夏の間は養蜂業を営み、冬になると山登りに出かけて行ったと言う。現在ヒラリー卿の像が立つ前述のマウントクック村は、周囲の峰々を攻略する彼の起点となった場所だ。ここで腕を磨いたヒラリーはやがて来るべき時に備えた。

1951年にエベレスト登頂に失敗したシプトン隊に参加した後、運命の年1953年がやってきた。この年ヒラリー卿は、ハント隊の一員として再度エベレストの前に立っていた。そして前回と違った事は、その後生涯を通じての交友を持つかけがえのない戦友であるテンジン・ノルゲイと出会った事だ。ノルゲイの人生については諸説あるが、この当時シェルパの一人として参加した事は間違いない。先にアタックした同胞が失敗して帰還した後、ハントは、ヒラリーとテンジンに出動命令を出した。

Everest 1951年5月29日午前、後にヒラリーの階段と呼ばれる難所の岸壁をクリアーした二人は、地球上で最も高い場所、エベレスト(チョモランマ)の頂上(海抜8,848m)に立った。この時に頂上に旗を立てるテンジンの姿の他、複数の写真が撮影されたが、そのどれにもヒラリー卿の姿はない。卿曰く「テンジンはカメラを使えなかった。私も写りたかったが、エベレストの頂上という場所は、カメラの使い方を教えるのにあまり適した場所ではなかった。」

エベレスト登頂の後には、不動の名声を得、南極や北極点にも到達したが、彼のその後半生において最も輝かしい栄光は、ネパールやシェルパ族のための慈善活動に身を投じた事であろう。それはテンジンとの友情の証でもあり、自分に名声を与えてくれたエベレストへの恩返しでもあった。昨秋公開したエベレストへの道の特集中に登場するナムチェバザールやクムジュンにも、ヒラリー卿が建てた公共建築物が残っている。クムジュンには、卿の銅像もあるらしい。冒険や探検を繰り返すだけではなく、現地の人々と環境に配慮した点において、世界中から慕われていた。存命中にニュージーランドの5ドル札に登場したのも、人々の敬慕によるものだ。個人的には、いつも人と環境に温もりを欠かそうとしないニュージーランド人らしい。

享年88歳。天寿をまっとうしたと言える年齢であろう。その精神がずっと引き継がれる事、そして、ご冥福を祈りたい・・・。

|

オセアニアツアー」カテゴリの記事

ユーラシア旅行社が世界の歴史を語る」カテゴリの記事

ユーラシア旅行社社員が世界の自然を語る」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。