2008年12月 8日 (月)

ロマノフ王朝の最期

Kremlin 1990年代にロシアのエカテリンブルクで発見された数体の遺骨の鑑定を進めていた学者達がこれらの遺骨がロマノフ王朝最後の皇帝であったニコライ二世一家の物であると認定した。既にそうであるという説は発表されていたが、裏付けが不足しているという説が有力であった。また、何よりも様々な謎に包まれたロマノフ王朝の最期から派生した多くの伝説を信じる人々はそれを信じたくなかったのかもしれない。遺骨が正しい物であったとすると、最期を免れた王族の生き残りの話や隠された秘宝の伝説にロマンを見る事ができなくなってしまうからだ。

1917年、帝政ロシアは危機に瀕していた。

Saintpetersburg 国内における相次ぐ要人暗殺や各種階級の蜂起、そして解決できない貧困問題。その中で対外的に戦争に踏み切り、その勝利を持って国内の諸問題の解決を試みた皇帝ニコライ二世であったが、それも敗戦を喫し、約300年もの長い間ロシアの頂点に立ってきたロマノフ王朝は正に虫の息となった。間もなくして蜂起したレーニン主導のソヴィエトを始めとする国内諸派の圧力によってニコライ二世は退位に追い込まれた。ロマノフ王朝の終焉である。そして皇帝一家は、エカテリンブルクに幽閉された。

時代は騒乱の時代である。そして選ばれた人である皇族という地位は諸刃の刃でもある。歴史を通じて混乱期の皇族達が暗殺された例は、洋の東西を問わず枚挙に暇がない。退位した上に幽閉されていたニコライ一家だが、誰がいつ担ぎ出すとも限らない危険な存在であった。その危険性を誰よりも恐れていたのもレーニンだったとも言われている。事実エカテリンブルクに急遽部隊を派遣したのはレーニンであった。そしてニコライ一家の運命も終りを告げた。時はまだ同じ1917年であった。

暗殺後に公式的に発表されたのがニコライ二世が死んだ事だけであった。レーニンとしては、物議を醸す出来事をあまり明るみに出したくなかったという事情もあった。遺体も隠密裏に処分され、残りの一家の事に関して明確な案内をしなかった為、この事件は様々な憶測を呼んだ。そしてその憶測は発展して様々な伝説になっていった。

Hermitage_museum 今日のロシアを訪れると嫌でもロマノフの栄華に触れる事になる。モスクワ、サンクトペテルブルク、この二都市は帝都以外何物でもないだろう。だからこそ、いつまでもその奥に潜む謎や伝説を見ていたいという人も少なくなかったのだろう。かくいう私もその一人である。時には科学の力も恨めしい。レーニンもその一人であろうか。少なくても今日のロシアでのレーニンの人気はニコライ二世のそれをはるかに下回るようだ・・・。

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