2009年3月 4日 (水)

ドラキュラのモデル、ヴラド三世(ルーマニア)

Dracula_statue_2 昨日の記事の続きより。
本日はルーマニアにあるドラキュラ城と呼ばれるブラン城の由来とドラキュラの本当の姿に迫る。

そもそも我々が知るドラキュラとは何か。それは19世紀末にブラム・ストーカーが発表した「吸血鬼ドラキュラ」という小説やその小説を元にしたドラマや映画で知る吸血鬼のイメージが強い。このドラキュラのモデルとされているのが15世紀現ルーマニアのワラキア地方の領主であったヴラド三世という人物。ヴラド三世は捕虜や罪人を串刺しにして処刑したことから「串刺し公」のあだ名があり、またヴラドの後にドラキュラと名乗っていた人物である。もちろん人の血を吸ったという記録はないので、上記以外の小説に登場するドラキュラの奇行は主にフィクションなのだが、この小説のイメージが強い為に伝説が生まれ、20世紀以後世界的に有名な人物になった。

Vlad_house さて、このヴラド三世なる人物の本当の姿はどのような物であったのだろうか。ヴラド三世は1431年にブラン城の北西方向にあるシギショアラという町でヴラド二世の息子として生まれた。ちなみにヴラド二世は竜の騎士団に属していたのでドラクルを名乗っていたが、ドラキュラというのはドラクルの子供という意味だ。15世紀半ばと言えばちょうどメフメト二世がコンスタンティノープルを陥落させ、バルカン半島にもオスマン勢力が伸張してきた時代であった。この地にあった小国家はヨーロッパ側についてオスマンと戦うかオスマンに従うかの二者択一を迫られていた。政局が混乱を極める中で父や兄も暗殺されたヴラド三世の治世もヨーロッパ側の最も近接しているハンガリーとオスマンの間で振り回され、治世そのものも3回に分断されている。

その混乱の時代には「串刺し」という処刑法も珍しくはなかったようだが、ヴラド三世は強大なオスマンの使いや捕虜も遠慮なく串刺しにした事から「串刺し公」というあだ名がついたようだ。そして実戦でも寡兵でありながらオスマンとよく渡り合い、決してオスマン帝国に媚びる事はしなかった。そして最後もオスマンとの戦いの中で戦死しているルーマニアの英雄の一人だ。

Dracula_meal 今日のルーマニアには昨日紹介したブラン城を始め、ヴラド三世の生家と呼ばれる建物もシギショアラに残っている。もちろん吸血鬼の痕跡は一つもないのだが、歴史ロマン溢れる場所ではある。ちなみに生家の方は現在レストランになっていて、ツアーではここで食事をする事もできる。メニューはその時々によって違うが、割合普通の西洋料理である。しかも味は悪くない。もちろん串焼きのシシ・ケバブなんて出てきはしないが・・・。

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