グロテスク装飾(様式)
今朝駅で電車を待っていたら、前の女子高生二人組が携帯電話を覗き込みながら、「グロくない?」「うわ、グロ!」という会話を交わしていた。彼女達が使っていた「グロい」という言葉は、私の周りにも使っている人がいる「グロテスクな」という意味の造語である。「グロイ」という用い方はしないにしても日本ではグロテスクという言葉はすっかり市民権を得ている。しかし、例えばヴァチカンのヴァチカン博物館やフィレンツェのウフィッツィ美術館を始めとするルネサンス期の装飾が施された場所に行くと、また別のグロテスクに出会う事になる。この場合のグロテスクとは、もちろん気持ち悪いという意味ではない。実は単純な線や植物を用いた文様を指して、グロテスク文様(様式)と呼ぶ。右の写真はフィレンツェのヴェッキオ宮にある階段の天井部分。そこに描かれているのがグロテスク文様(様式)の一例だ。これを見ると、実はイタリアやヨーロッパの宮殿でよく見る装飾である事に気付いた方もいるだろう。
それでは何故、このグロテスク文様(様式)が日本で気持ち悪いという意味を持つようになったのか。それはこの言葉の語源とも無縁ではない可能性が高いので、語源を遡ってみたい。
その語源は二千年前に遡る。時は紀元後64年古代ローマ帝国の首都ローマ。当時の皇帝はネロであった。この年ローマで歴史的な大火(ちなみにこの大火の原因をキリスト教徒に押し付けた事がネロの悪名を特に高くしている)が起き、ローマ中心部は大幅な再建を余儀なくされた。ネロは更地になったフォロ・ロマーノの東方に巨大な宮殿の建築を始めた。この宮殿は現在コロッセオが立つ場所が宮殿中庭の池であったという程巨大な宮殿であり、ドムス・アウレア(黄金宮殿)と呼ばれた。この豪奢な宮殿建築は、ネロの政治寿命を更に縮め、間もなく帝位を追われ、自殺する事になった。ネロ亡き後は、失脚の原因ともなった宮殿に住もうという皇帝もなく、破壊されたり、埋められたりして、いつの間にかローマから姿を消した。
ちなみに前述の通り中庭があった場所は埋め立てられて、ネロの死後10年後には既にコロッセオが建てられていた。この中庭にはもともとネロの巨像(コロッスス)が置かれていたので、コロッセオという名がついたと言われている。もう一つ余談として、二千年前に古代ローマ人達はあの巨大なコロッセオを僅か3、4年でほぼ完成させたが、現代のイタリア人にそのような仕事を発注しようものなら、30~40年ぐらいはかかるだろうという悪い冗談もある。
話が脱線してしまったが、ネロのドムス・アウレアは地中深くに埋まっていき、人々の記憶からも消えた。しかし、ネロの死から約1400年後、現在のエスクィリーノの丘辺りで偶然古代ローマの遺構が発見された。とは言っても何せどこを掘っても遺跡に当たるローマなのでそれ程珍しい事ではないだろうが、掘り下げるに従って鮮やかなフレスコが数多く発見されるに至り、ルネサンス美術が開花していたイタリアでもセンセーショナルな物となった。更なるセンセーションをもたらす事になるポンペイとそのフレスコの発見は19世紀まで待たなければいけない。この発見は地中に掘り進めて発見された遺跡は「グロッタ=洞窟」と呼ばれ、そこで発見された古代ローマの美術様式は形容詞化したグロテスクと呼ばれるようになった。これがグロテスク装飾(様式)の語源だ。
このグロテスクが何故グロくなってしまったのかは明日に続く・・・。
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