マサダの要塞(イスラエル)
マサダは上部の地図にあるように死海の南端に近い場所に位置しており、陸から直角的に隆起した高さ400mの丘である。丘の上は比較的平らになっており、紀元前31年頃にヘロデ大王(大王に関しては過去記事参照)が万が一エルサレムを脱出しなければならなくなった時に備えて宮殿も備えた要塞として整備したのがマサダの要塞の起源。大王の亡き後は一時的にローマの支配下に入ったが、紀元後66年にユダヤ属州の大規模なローマに対する反乱が起きると、狂信的なユダヤ教徒の一派であるシカリ派が手薄なマサダのローマ軍から要塞を奪い取った。
一方で各地の反ローマ運動はエスカレートし、鎮圧に赴いてきたローマ軍の軍団が敗れる事態を受け、当時の皇帝ネロが後に皇帝となるヴェスパシアヌスを派遣した。ヴェスパシアヌスは息子ティトゥスと共に各地のユダヤ勢力を鎮圧し、ユダヤ教徒達の心の拠り所であった神殿を破壊した。ちなみにこの時破壊された神殿の名残が今でもユダヤ教徒達の信仰を集める「嘆きの壁」である。
狂信的なシカリ派の人々は元々ユダヤ教徒の中でも疎まれていた為に、ローマ軍がエルサレムを攻略する以前から他と一線を画してマサダやその近郊に居を移していた。エルサレムを攻略したローマ軍は間もなくにマサダを包囲した。シカリ派のユダヤ教徒達は絶望的な状況の中でも降伏の道は選ばず、籠城した。しかし圧倒的な軍備と兵力を誇るローマ軍は3ヶ月とも言われる攻防の後に丘頂上の城塞部になだれ込んだ。そこで彼らが見た者は、1,000人近い死体だったと言われている。ユダヤ教は自殺を禁じている為に、お互いを殺し、最後に残った一人だけが自決したとも言われている。ユダヤ人達の文字通り最後の砦は崩れ、流浪の歴史が始まる。
今日のマサダはナショナリズムの象徴の一つでもある。ローマ人達が苦戦した頂上部へのアプローチは、現在ロープウェイが先導してくれる。マサダはその後打ち捨てられたので、シカリ派の人々が最後まで戦った城塞の基部は残っていて当時の姿を想像できる。東側には死海を見下ろす事が出来、西側にはエルサレムまで続く荒野が広がる。この周囲の風景は当時きっとローマ軍の姿で埋められていたのだろう。最後まで戦った人々はどういう気持でそれを眺めたのか。
マサダの玉砕から二千年近い歳月が流れ、ユダヤ人達は再び国家を持てるようになった。しかしそれによって生じた中東問題は今日もまだ解決が見えてこない。それぞれの苦しみがあっただけに難しいだろうが、双方の若者の間でも相互理解を深めようという動きもあるように、軟着陸を願っている。第二のマサダや嘆きの壁はいらない。
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