【共通テーマデー】わたしの中のヒロイン~イザベラ・デステ~
1474年、イザベラはイタリア中部のルネサンス計画都市フェラーラで生まれた。当時フェラーラを治めていたイタリア有数の名門貴族エステ家の当主エルコレ一世の娘として誕生したイザベラは幼少の頃から才能を発揮し、学問はもちろん、音楽、ダンス、絵画にも才能を発揮したと言われている。
6歳になると早くも比較的近い位置にあるマントヴァのゴンザーガ家に嫁ぐ事が決まった。典型的な政略結婚ではあるが、聡明なイザベラはその意味を理解し、結婚に対しても前向きに向かっていったようである。
16歳になった1490年に正式にゴンザーガ家に嫁ぐ。夫はマントヴァの当主フランチェスコ二世。夫としては比較的良い人物だったようで、フランチェスコの妹らともすぐに意気投合したイザベラはマントヴァの宮廷でも幸せな生活を送った。しかし当時は華やかなルネサンス全盛のイタリアとは言え、各都市国家による政治的争いも少なくなかった。イザベラもそうした争いに巻き込まれる事も少なくなかったが、持前の知謀を生かして政治にもその手腕を発揮した。
夫がヴェネツィア軍の捕虜になると先頭に立ってマントヴァの勢力拡大に貢献した。その後解放された夫がマントヴァに戻ってくると、市民の間でイザベラの有能ぶりと自身の無能ぶりが対比されているのを耳にし、憤慨して以降夫婦関係が下降線を辿ったと言われている。出来る女を妻に持つ事は楽な事ばかりではない・・・。夫の死後は堂々と先頭に立ってマントヴァを切り盛りするようになるが、破竹の勢いでイタリア半島に攻め入り、ミラノもあっさり陥落させたフランス軍との講和交渉に赴き、見事説得してマントヴァを守ると言う功績を残した。
イザベラは政治的手腕を発揮するとともに、芸術保護にも力を注いだ。嫁ぐ前からマントヴァにはマンテーニャという大家がいたが、イザベラが芸術を厚く保護したおかげでマントヴァは文化都市としてヨーロッパにその名を知られるようになった。イザベラのサロンに現れた芸術家はティツィアーノ、ラファエロ、ジョヴァンニ・ベッリーニ、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチだ。男性君主による芸術家保護の動きはイザベラの登場以前からあったが、女性がサロンを主宰する動きは、後のヨーロッパ宮廷のお手本となった。
イザベラはレオナルド・ダ・ヴィンチに自身の肖像画を発注したが、結局完成品を手にする事がなかった。レオナルドはデッサンを仕上げたが、イザベラの再三の督促にも関わらず、結局デッサンをそのままフランスに持って去って行った。左上が現在はルーヴル美術館に収められているレオナルドによる「イザベラ・デステの肖像」だ。右上の「モナ・リザ」と比較してポーズや雰囲気が酷似しているのがお分かり頂けるだろう。イタリア語のイザベラの愛称はリザ。「モナ・リザ」のモデルはトスカーナのジョコンダ夫人であったというのが通説だが、レオナルドが当代きっての才女を描いたとしても不思議ではない・・・。
【共通テーマデー「わたしの中のヒロイン」】
〔添乗見聞録編〕~ダリットの女王マヤワティ~
〔倶楽部ユーラシア編〕~イザベラ・デステ~
〔ぶらり秘境探検隊編〕~動物のお母さん~
〔ろまねすく通信編〕~ジョルジア・ボスコロ~
〔船の旅便り編〕~ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ~
〔パゴタの国からミンガラバー編〕~女王シンソープ~
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