2012年4月12日 (木)

アントニン・ドヴォルザーク

一昨日、昨日と「プラハの春の音楽祭」に関連してのお話です。特に昨日は少し脱線してしまいましたが、プラハのアールヌーボーと日本との関係だったような気がします。
今日はアントニン・ドヴォルザークのお話です。アントニン・ドヴォルザークとは有名なドヴォルザークのことです。チェコを代表する音楽家です。Birthhouse_of_antonin_dvorak
ブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となったドヴォルザークですが、プラハの北約30kmほどにあるネラホゼヴェスに1841年9月8日に生まれました。
6歳で小学校に通い始め、校長先生にヴァイオリンの手ほどきを受けると見る間に上達し、父の宿屋や教会で演奏するようになりました。8歳で村の教会の聖歌隊員、9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者となり、音楽的才能を見せ始めます。(右の写真はネラホゼヴェスのドヴォルザークの生家)

Zlonice_station_zlonice1 途中、家庭の経済状況が悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となりましたが、伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学しました。(左の写真はドヴォルザークが少年期を過ごしたズロニチェの町の駅)

プラハのオルガン学校卒業後は、カレル・コムザークの楽団にヴィオラ奏者として入団、ホテルやレストランで演奏を行っていたが、1862年チェコ人による国民劇場建設が具体的に決まり、完成までの間仮劇場を設けることになり、ドヴォルザークは、そのオーケストラのヴィオラ奏者となりました。

Praha_narodni_divadlo その後、音楽家生活を行っていた彼ですが、1878年、ドヴォルザークはウィーンにブラームスを訪ね、翌年にはブラームスがプラハのドヴォルザークの許を訪ねるという具合に親しい交際が始まりました。このブラームスとの出会いが、有名音楽家への第一歩です。
その後、順調に音楽家人生を送ったドヴォルザークですが、1891年春、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者・理事長ジャネット・サーバーからドヴォルザークに音楽院院長職への就任依頼が届きました。年俸15,000ドルという提示額は彼がプラハ音楽院から得ていた金額の約25倍です。勿論渡米。
その後、一時帰国をしたところ、やはり故郷が良いとホームシック。重ねて恐慌で給与も延滞。まあ金の切れ目が縁の切れ目じゃないけれど1895年4月16日帰国。
1901年オーストリア貴族院はドヴォルザークを終身議員に任命し、同年7月にはプラハ音楽Prague_spring 院の院長に就任。
1904年4月に持病悪化で死亡。葬儀はその4日後の5月5日に国葬として行われました。遺体はヴィシェフラット民族墓地に埋葬されました。

今年も、フィナーレではドヴォルザークの作品が演奏されます。
ドヴォルザーク、『家路』、『遠き山に日は落ちて』と編曲され、学校から図書館などの公共施設、果てはパチンコ屋まで、一日を締めくくる音楽として、日本人に親しまれています。(海外でも「Goin' Home」というタイトルです。)もしかしたらもっとも親しまれているクラシック音楽かもしれません。。(上野)


プラハの春の音楽祭はこちら

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