2016年6月23日 (木)

サハリンに『銀河鉄道の夜』を訪ねて

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日本時代の展示/サハリン州立博物館にて

北海道の北にある島、樺太、現在はサハリンと呼ばれロシア領だが、かつて何度かに渡って、日本の統治下にあった。

1854年(安政元年)日露和親条約が締結された。それまで領有が曖昧だった樺太(サハリン)の国境を定めようと試みたが「これまでの慣習のまま」となった。即ち曖昧。1867年(慶応3年)に日露間樺太島仮規則を定めたが別名樺太雑居条約というくらいで結局国境は定めなかった。条約には「樺太島に於いて両国人は睦しく誠意に交際する」なんて、なかなか微笑ましい内容が書かれている。
1875年(明治8年)5月7日千島樺太交換条約。1905年(明治38年)9月5日日露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲される
領有はしたものの、この北の大地よりも更に北の大地をどうすればいいか途方にくれた。千島と樺太を交換したのは、正直、原生林よりも鮭鱒蟹がたんまりとれるオホーツク海の方が魅力があったのだろう。
原生林に目をつけたのは製紙会社であった。針葉樹から良質の洋紙を作ることが出来る。こうして、製紙工場が樺太に建てられ、そして、木材運搬の為に鉄道が敷かれた。

1923年(大正12年)8月2日、詩人・作家の宮沢賢治が、樺太を訪れる。大泊(コルサコフ)に上陸し、栄浜(スタロドゥプスコエ)に向かう。帰路、豊原(ユジノサハリンスク)に立ち寄る。
表向きの理由は出張。農学校の教師であった宮沢賢治が教え子の就職を依頼しに、樺太の製紙会社に勤務している先輩を訪ねるということであった。実際は前年11月に亡くなった妹の傷心旅行というのが定説である。
7月31日21時59分花巻駅を出発、8月3日午前7時30分樺太の大泊港に到着した。
ここで出張の用事は終え(たった半日じゃないか!)13時10分大泊駅から樺太鉄道に乗り18時20分終点栄浜駅着した。
栄浜駅は当時日本領最北端。これが宮沢賢治が訪れた理由である。ちなみに稚泊連絡船が就航したのは5月。賢治は出来たてほやほやの連絡船に乗って行った。
現地では栄浜の海岸を散策して「オホーツク挽歌」、「樺太鉄道」をスケッチ、途中、鈴谷平原(現ユジノサハリンスク郊外)もスケッチしている。
8月12日花巻に到着。1924年(大正13年)から『銀河鉄道の夜』の執筆が始まった。

最後に、宮沢賢治の名誉の為に一つ。旅費は賢治が自前で負担したそうである。

サハリンへの旅は↓
サハリン大縦断と銀河鉄道の旅  8日間 ETS8

日本時代の蒸気機関車D-51/コルサコフ駅にて(c)Rob Dickinson

写真は未だに活躍する日本時代の蒸気機関車D-51/コルサコフ駅にて(c)Rob Dickinson

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