2009年10月27日 (火)

マヤ遺跡いろいろ グアテマラ編-その2

 みなさん、こんにちは。ジャングルでルチャリブレ、高村“あなたに愛のバックドロップ”陽子です。今日も前回に引き続きマヤについてお話します。 
 マヤはいわゆる4大文明と異なり、大河を持たない文明として知られていますが、ユカタン半島に広がる広範なマヤ地域内ではさかんに交易も行われ、川はその重要な交易ルートとしての役割を担っていました。グアテマラの北部低地を流れるパシオン川もその一つで、この流域、近郊には多くの遺跡が残っています。
 
001aguateka  パシオン川からボートでさらに進み、支流のペテシュバトゥン川へ。今回ご紹介するアグアテカ遺跡は、規模そのものは中程度ながら、ティカルとカラクムルの交易権争いが繰り広げられた一帯にあるという地理的な面と、ティカルとカラクムルという大国がその終焉へと向かっていく時代に存在していたという歴史的な面でも興味深い遺跡です。
 

 マヤ古典期の後期にあたる650年頃、当時パシオン川周辺の交易において勢力を拡大002daidokoro していたカラクムルに対抗すべく、ティカルは王子の一人であるバラフ・チャン・カウィールをパシオン川地域のドス・ピラスという都市の王に据えましたが、ドス・ピラスはカラクムルにより占領され、王も一度はドス・ピラスを追放されます。しかしその後ティカルを裏切った王はカラクムルの保護によりドス・ピラスに戻り、カラクムルの同盟国としてこの地域で勢力を拡大、遂にはカラクムルから祖国ティカル攻撃の命を受けます。結局、ティカルの王は戦死し、カラクムルの勢力は絶頂期を迎えます。都市の勢力の興亡がマヤの歴史の面白さでもありますが、ティカルもその例外ではなく、この時このまま衰退していったわけではありません。その約20年後ティカルは再びカラクムルと戦い、今度はティカルが勝利します。このような戦いを繰り返すうちに二国は国力を疲弊させていくことにはなるのですが。

003peteshuba  その後しばらくカラクムルの同盟国としてこの地域で権勢を誇ってきたドス・ピラスが、王朝の第二の都として置いたのがアグアテカですが、この頃にはティカルやカラクムルの勢力が衰える一方でその他の同盟国や属国が台頭し、もはや安定した秩序は存在していませんでした。そんな時代の761年、戦いに敗れたドス・ピラスの4代目の支配者は、戦略上の防御のために王朝をアグアテカに移したものの勢いは復活することなく、810年頃に別の王朝からの襲撃を受けます。敵は支配者の権威を破壊しその終了儀式を行うかのように宮殿や高官の館に火を放ち、侵略者達はその正体の手がかりすら残さず立ち去りました。住居部分からは土器などの日用品やヒスイ、黒曜石などの装飾品が多数出土しており、また一部の神殿は建設中であったことも分かっており、それらは権力者たちエリート階級が計画的に都市を移動したのではなく、突然の襲撃を受け、準備もままならないうちに放棄せざるを得なかったことを示しています。

 大国の大きな遺構の近くで、マヤ後期の混沌とした時代を感じられる都市遺跡アグアテカ。人々は去り、都市は廃墟になった今、ジャングルの中には歴史の一幕に思いを馳せるには十分な雰囲気が漂っています。(高村)

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