2010年12月 3日 (金)

クネっと曲がった国境線

みなさん、こんにちは。たどり着いたらいつも雨降り、吉村“着いてなかった”和馬です。
東京の朝はあんなにどしゃ降りだったのに、いつの間にか晴れ間も出ていましたね。そういえば、開催地候補日本、残念。この悔しさは中近東初の開催地、カタールで実力で雪辱しましょう。
では、お待たせしました。今日は何の日のコーナーです。歴史上の出来事としては、冷戦終結を宣言(1989)でしょうか。秘境チームの一員として、この冷戦とアフリカについて延々と述べてみようかと思いましたが、UPが明後日くらいになってしまいかねませんので、またの機会にさせて頂きます。ということで、本日は冷戦とアフリカの関係に似ていなくもない、アフリカの国境線について、明日話せる小ネタをご紹介します。

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世界地図を広げてみると、アフリカ大陸には定規で測ったような形をした国が多くあります。例えば、西アフリカのマリとモーリタニア、ナミビアとボツワナの国境線なんかがあります。まさに定規で測ったような国境線ですが、実は本当に定規で測って決められた国境線なんです。時は1884年のドイツ・ベルリン。ヨーロッパ列強がベルリンに集まって、あーだ、こーだの言い合いで地図上でアフリカを分割してしまったのです。それが独立後も国境線になり、この地図上分割のおかげで、同国内に様々な民族が同居し、様々な言語が話され、民族紛争に繋がる要因にもなっています。 

さて、アフリカ大陸の東に注目してみましょう。野生動物の王国ケニア・タンザニア。勿論

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現在は独立していますが、ケニアはもともとイギリス領、タンザニアはドイツ領で、2ヵ国の境界線は、インド洋のウンバ川河口とビクトリア湖を結ぶ直線とされました。この境界線上にあったのがアフリカ最高峰キリマンジャロ。分割当時はケニア領内とされていましたが、現在ではタンザニア領内になっています。これは、アフリカ最高峰を巡った激しい抗争の結果、というわけではなく、現在のようにクネっと曲がった国境線になった理由は争いではなく贈り物とされております。
今でこそ、世界中の登山家たちが登頂を目指し、年間何万人という人々がキリマンジャロに挑戦しています。私もいつかは!と常日頃からトレーニングは欠かせていませんが、気持ちだけが常に先走ってしまっています。このキリマンジャロ登頂に初めて成功したのはドイツの登山家。当時はまだケニア領内でした。この初登頂記念に、ドイツがイギリスに譲渡を申し入れ、イギリス側も素直に受け入れ、そしてキリマンジャロがタンザニア領内に移るに伴い、国境線も現在のようにクネっと曲げられることになったのです。
現在今、ケニア・タンザニアの2ヵ国はサファリをメインとした観光大国になりました。現在のケニア人にとっては、多くの観光客を魅了するキリマンジャロは喉から手が出るほど欲しいはず。
両国はあんまり良い関係ではないと、現地のガイドさんから話を聞いたことがありますが、あの美しいキリマンジャロをめぐって、争いなど起こらぬことを願います。

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